声
- rain
- 2023年3月21日
- 読了時間: 49分
更新日:2023年3月22日
ロイエテ/シャオ視点
『誰がために』『淡い少年のとき』https://www.pixiv.net/novel/series/7594302と同世界ですが、単品でも読めます(多分)
(めんっどくさ……ほんっと最悪)
そう内心でぼやきながら、シャオは自室の扉の前に立つと、隊服の襟元に指を入れて緩慢な動作でホックを止めた。
どうして休みの日にわざわざ呼び出されて付き合わされなければならないのか。だいいち、今日はあの人だって休みのはずじゃないのか? ひと月に一日あるか無いかの休みくらいちゃんと休めばいいのに。もういい歳なのだし。
そんなことを思いながら、宿舎の中に与えられた自室を出ると、のんびりと灰色の廊下を歩き始める。
延々と続く基地の灰色を長方形に切り取った窓の向こう側には、今日も今日とて黒々とした大聖堂が高く聳え立っていた。城壁に真昼の太陽が反射して、昨夜夜半から降り出した雨の気配が光の粒になってあちこちに振りまかれているようだった。
今日は待ちに待った休日だ。
猫かぶりの公共放送も日曜日で休みだし、最近演習やら訓練やらで何かと忙しくて、休日に割り振られている日もまともに休めた気がしていなかったから、朝から晩までベッドでごろごろして過ごそうかと思っていた。朝一度起きて、ナーヴ・ベースの基地の宿舎で朝食を食べて、もう一度ベッドに戻って眠り込んでいたところに突然、ベッドサイドのコンソールパネルがけたたましい高音を上げたのだ。その爆音でシャオが飛び上がったのは言うまでもない。
『シャオくん……、起きてた……?』
「………なに」
恐る恐るの声音の割には、コール音が緊急用アラートだったのはどういうことだ。そういう文句を込めて不愛想に返せば、通信の相手、ロイエ隊長は声に面目ないといった色を更に乗せながら言ってくる。
『実はお願いがあって――』
「無理」
『そこをなんとか……』
シャオは渋面のまま寝癖のついた頭を掻いた。
「お願いって?」
『え~~っと、護衛を……頼めるかなぁ?』
「誰の?」
『ちょ~っと状況が状況で、説明しにくくてねぇ? 来てくれれば解るから……お願いっ!』
言葉尻に掛けて、パネルの向こう側からライデンがロイエを呼ぶ爆音量の声が部屋に飛び込んでくる。ライデンの声に混じって歓声や口笛が聞こえてくるので、何やら盛り上がっているようだ。
「うるさいの苦手なんだけど……」
『煩くないよ! ちゃんとした場だから』
「説得力皆無」
『シャオくぅ~ん……』
いや、犬か。く~んがそのまま犬がしょんぼりしている音に聞こえて、シャオは渋々ベッドから両足を下す。
「どこ行けばいいの?」
『執務棟前の中庭。来てくれたらわかるよ』
「今すぐ?」
『十五時過ぎにはお願いできると嬉しいかなぁ……』
そう言われてパネルの時計を見れば、あとに二十分で十五時である。これはひとえに、シャオが絶対に断らないことを知っていてギリギリにコールを寄越したヤツだ。時間まで寝かせておこうとしてくれた配慮なのか、突然降って湧いた話なのかは知らないが、シャオがコール音で起きなかったらどうするつもりだったのだろうか。あの声の調子では他の誰かに頼むわけにもいかなさそうな雰囲気だったが……
そんなことをつらつらと考えながら基地の廊下を抜け、教会島の南大門に構えられたエレベーターホールを折れて大聖堂へと続く防弾ガラスの歩廊に足を向けたところで、シャオはとんでもないことを思い出してしまった。
そういえば今日は……ユニティオーダーのナーヴ・ベース所属の隊員たちによる、御前試合が開催される日だったのである。
(さいあくだ………、免れたと思ったのに……)
この御前試合は、二週間前に突然降って湧いたような類のとんでも話だった。
隊長の説明によれば、日頃鍛錬に励んでいる隊員たちの技を宗主様の前で披露して、基地内で一番の腕前を競うという案が持ち上がっているということだったが、見方を変えれば暇を持て余した警邏の隊員たちのお遊びにしか思えない。下界に遠征させられている分隊にとっては、平素執務棟の奥に引っ込んでばかりいる教会宗主にそんなものを見せて何が楽しいのかと若干腹が立つ上に、おまけにシャオのように飛び道具を得物にする隊員たちには参加資格が与えらなかった。猊下の御身に危険があってはいけないから、という理屈はわかるが、飛び道具が弾かれるならば優勝者が基地内一の腕前ということには全くならないのではないか。
そんなこんなで、参加を免れたシャオは本日、久しぶりに休みらしい休みを満喫できることになったのである。
防弾ガラスで筒状に囲まれた回廊の中ほどまで来て、シャオは良すぎるほどに良い視力でガラスの向こう側を注視する。すると、遥か遠くの大聖堂の奥、中庭に建てられた東屋の辺りには豆粒のようなサイズの白黒がうじゃうじゃと蠢いているのが見えた。
確か二百人くらいがエントリーしていて、猊下の御前で行われているのは上位二十名の優勝争いだったはずだ。としても、きっとあの場所には六分隊くらいの総数が観戦に出ているはずだった。
それを考えて、はて、と疑問が湧いた。ひっくり返した石の裏にいるワラジムシみたいに隊員たちが犇めいているのに、なにゆえ自分に護衛などという役目が降りかかってくるのか。しかも、ライフルを持ち込めない試合の席で。
別に御前試合に出たかったわけでも何でもないし、基地内一の腕前を御前試合で決めずとも、そのために勲章というものがある。長距離精密射撃の腕前を認められて二年でナーヴ・ベースに上がって来た実績のあるシャオにとって、射撃では誰にも負ける気がしない。だからまるっと無視をして寝ていても良いはずなのに、わざわざ隊長から呼び付けられて護衛の任を賜る必要性を全く感じず、徒歩三分ほどで渡り終えられるはずの大聖堂前の歩廊が嫌に長く感じられた。
(ま、仕方ないか……命令なら)
そう思える自分はとても忠実な素晴らしい隊員だ。いや、息子だ、とシャオは己を褒めつつ動きの鈍い両足を叱咤する。
大聖堂をぐるりと取り囲むように設えられた白い石敷きの歩廊に足を向け、執務棟の白い壁が左手に大きく見え始める頃には、シャオは顔面に貼り付いた渋面をいつもの無表情に切り替える。まだかなりの距離があるのに、隊員たちが時々上げる雄叫びが中庭じゅうに響き渡り、執務棟に反射して左右から突き刺さってくるのが煩わしい。あの喧騒の中に入り込んで行くのが好きなのなんて、ライデンのお馬鹿くらいだろう。
ふと、東屋の下からこちらを見つめる人影が視界に映った。ロングコートの端から覗く金属の左手を陽光に反射させながら、こちらに向かって手を振っている。
シャオの養父、ユニティーオーダー隊長のロイエである。
「今日休みなんだけど……」
「解ってるよぉ、ごめんねえ~」
シャオが東屋の階の下に寄れば、ロイエが数段降りて来て右腕を取られ、こそこそと耳元で喋ってくる。
「実はね……、僕もこの後、最終試合の勝者と闘わなきゃいけないことになっちゃってね……」
「なんで?」
「いやあほんと、なんでだろう……成り行き?」
成り行きでそんなことになるな。
隊長が東屋を出るなら宗主様の護衛は……、と思ったところで、半分以上聞き流していた通信の内容をやおら思い出す。
「だからちょっとの間、僕の代わりにそこに立ってて?」
「………」
ロイエの肩越しに振り返り東屋の下を見れば、この日のためにどこかの部屋からかわざわざ運び出されたのであろう大きな古めかしい猫足のソファに、教会宗主のエーテルネーア様がちょこんと腰かけて庭先の試合を眺めている。二人掛けのソファなのかと目を凝らすが、単純に独り掛けのソファが横にデカくて宗主様が細いのか。サイズ感がよく判らなくなってくるソファの後ろには御側付きの見習い導師が二人立ち、その向こう側には執政官のミゼリコルド様の姿もある。
無表情に微かな呆れを乗せてロイエに視線を戻すと、ロイエも困り切った感情をピジョンブルーの淡い両眼に浮かべてこちらを見つめている。
シャオはごくごく小さな溜息を吐いた。
「ただ突っ立ってればいいんでしょ? 了解」
「さすがシャオく~ん!」
「うざい」
喜々とした小声に不愛想に返せば、右の二の腕を義手の左手でがっしりと掴まれて東屋の階段を登らされる。ロイエが出場するタイミングまで下に控えていようと思っていたので、隊長の思わぬ行動にシャオは一瞬慌てて足元がよろけてしまった。
「エーテルネーア様、ミゼリコルド様」
足元を注視している間にあっという間に数段の階を登り終え、シャオは貴人たちの前に背中を押して出されてしまった。
ロイエの声に、歪んだ角の生えた仮面がゆったりとした仕草でこちらを見上げてくる。
「最終試合の間は、この分隊長がエーテルネーア様の護衛に当たらせて頂きます」
視線の先で、黒い仮面の下端から伸びる金の鎖が揺れる。
「御休みだったのだろう? わざわざ御足労を煩わせたね」
不思議な声音で謝辞を述べられて、シャオは意図せず、ごくりと唾を吞み下してしまった。この距離で教会宗主に話しかけられるのは初めてで、しかも労われるとは思わなかったから、不覚にも動揺してしまったのである。
「……ほら、シャオくん! ちゃんとご挨拶して」
背中を軽く叩かれて、シャオは仮面から視線を逸らしてその場に片膝を突くと、右掌を胸に当てる最上礼を取った。
「お初にご尊顔を拝します。この春ナーヴ・ベースに移動になり、分隊長の任を頂きました。シャオと申します」
「ふぅん、君がねえ?」
頭上で疑問とも何ともつかない唸り声を上げたのは執政官か。それはわかっているのだが、作法を何も教えられないまま突然貴人の前に摘まみ出されてしまっては、顔を上げていいのかどうかもわからない。シャオは片膝を突いたままその場に固まった。
「お立ちなさい。石の上だ、膝を痛めてしまうよ」
「ありがとうございます」
深く穏やかな声が頭上にかかり、シャオはゆっくりとその場に立ち上がる。一応失礼の無いようにエーテルネーアの胸元にまで視線を下げるが、仮面越しの視線が顔面に突き刺さってくるようで居心地が悪かった。
「なかなか礼儀を弁えた分隊長じゃないか。誰かと違って、ねぇ?」
「……お返しする言葉もございません」
右側でロイエが恐縮したように返し、ミゼリコルドが楽しそうな笑い声を上げる。
その声に覆いかぶさるようにして庭先で歓声が上がり、隊員たちにぐるりと囲まれた草むらの中心では、右手を天に掲げて雄叫びを上げる姿がある。ライデンだ。傍らには剣を鞘に納めながら俯くクヴァルの姿もあり、どうやら最終試合の対戦はライデンとクヴァルだったようである。
庭先の喧騒に微笑みゆったりと拍手を送り終わると、エーテルネーアはこちらを見上げた。シャオは慌てて視線を戻す。
「シャオは幾つになったのかな」
「二十歳になりました」
「そう……、時が経つのは早いものだ……」
シャオが微かに小首を傾げると、エーテルネーアは意図を悟ってか、言葉を付け足す。
「シャオは確か、予備学校の一期生ではなかったかな」
「はい。十二の時に予備学校が新設されました」
「さぞ優秀だったのだろうね」
「………」
これに対しては自分から肯定できずにいると、横からロイエが口を挟む。
「とんでもない。不肖の息子です」
(あ~、なるほど……?)
この遣り取りが目の前で交わされて初めて、これだけの人数の隊員が居る中で護衛の任などという不必要な役目を申し渡され、休みの日にわざわざ宿舎から呼び出されたのか、その理由に筋が通った。教会宗主と執政官に息子を紹介しろとでも言われたのを断れずに、自分がエーテルネーアの傍を離れるギリギリになって当の本人を呼び出したのだろう。何故このタイミングでと思っていたが、おそらくアークを司る貴人二人の前に長時間立たされて検分される可哀想な息子の心理を慮っての事だろう。
そう考えると、父であり、ユニティオーダー隊長であるロイエの気遣いに少しだけ感謝が湧いた気がしたシャオである。
「見せて」
「………?」
エーテルネーアが唇の上で笑いながら、唐突に左の掌を差し出してくる。シャオが小首を傾げると、エーテルネーアも同じ方向に小首を傾げる。
「手を」
「………」
無言で右手を差し出せば、ひっくり返されて指の付け根を押され、指先で撫でられる。手入れのよく行き届いた黒い爪の先が繊細な動きで掌を撫でている状況に、シャオは横で微笑を浮かべながらこちらの遣り取りを見つめている父に視線だけで助けを求めた。そんな息子の姿に微笑みの形を苦笑いに変えて、ロイエが横から窘めてくれる。
「エーテルネーア様、シャオは射撃を得意としております。剣ダコはありませんよ」
「ああ、そうか……ロイエが剣の達人だから、御子息の掌にも硬いのがあるのかと思ってしまった」
微笑みながら言われて、シャオは右手を引くに引けずに困り果ててしまった。
何だろうこの会話。居心地が悪すぎる。
「その代わりに、シャオにはあざがあります」
「あざ? どうして?」
「長距離射撃用ライフルの反動を肩で受けるので、青あざが絶えないんですよ」
「さすがに見せてとは言えないね」
「……あの、……申し訳ありません」
こちらを見上げてくるエーテルネーアの口元には明らかに「見たい」と言いたげで、シャオの口から思わず謝罪が転がった。
調子の狂う人だ。そんな印象が残った。
「射撃の腕はユニティオーダー内でもトップクラスだとか? その歳で勲章持ちというのも、なかなか見どころがあるねぇ。結構なことだよ」
執政官がエーテルネーアの向こうから尊大な視線で言ってくる。これにもシャオは小さく礼を述べた。言葉だけならば単純な誉め言葉なのだが、物言いが如何せん上から目線で、褒められているのかそうじゃないのか判断がつきにくい。
ナーヴ教会の貴人二人と初めて会話を交わしたが、エーテルネーアは物言いが柔らかだがどこか感覚が妙で、ミゼリコルドの方はアーク市街に向けた物言いよりも千倍辛辣だが妥当なことを言う、というイメージだ。性質的に真逆のタイプなのだろう。
「エーテルネーア様っ!」
そんなことを考えている間に、目の前の宗主様に庭先から声が掛けられた。
エーテルネーアは漸くシャオの右手を離すと、ゆったりとした仕草でソファに座り直す。見たところかなり座面の奥行きが深く、クッションも厚い仕様だろうに、深く座って居丈高な態度を一切見せず、背筋を伸ばして膝を揃えている姿は慎み深かった。
「私はライデン! 分隊長だ! この度ロイエ隊長に挑むに当たり、一つだけお願いがある!」
「お話しなさい」
ライデンのいつもの調子に不機嫌な色を乗せるわけでもなく、エーテルネーアの声音は明るかった。
「隊長に勝ったら、猊下の御尊顔を拝みたい!」
ライデンの言葉に周囲は一斉にどよめき、六分隊分のおおお~! という雄臭い呻き声が庭先に満ちた。
「貴様っ! 言うに事欠いて、エーテルネーア様の御尊顔などと!」
当然ながら、すぐに執政官の怒号が巨大な鉄槌のように飛んだ。真っ白い首筋には血がのぼり、頬まで紅潮させながら拳を震わせている。しかしライデンときたら怒号もどこ吹く風で、上機嫌に笑っているではないか。
「ロイエ隊長が負けはしまいよ!」
「ライデンくんッ!」
ロイエが焦った声音で左手を泳がせている。落ち着け、ステイの仕草だ。ライデンはそれにも不敵に笑い、まるで挑発するようにして仁王立ちで拳を胸の前で合わせながら大声を上げる。
「全拠点の総統括官であり、我らがユニティオーダーを纏め上げるロイエ隊長が、俺のような無頼漢に負けては面目がたつまい!なあ、ロイエ隊長!」
「そりゃあ負けませんよ! いや違うでしょそうじゃなくてっ! エーテルネーア様にごめんなさいしなさいッ!」
相当混乱しているのか、まるで幼子の駄々を諭すような口調で叱り飛ばすロイエの後姿がシャオにはどこか懐かしい。
しかし、ロイエ隊長のそんな姿を見たこともない人間たちは唖然として自分たちの上司を凝視していた。隊員たちだけではなく、ミゼリコルドは美貌の顔面から眼球を落としそうなほどに目を見開いているし、エーテルネーアでさえ角の生えた仮面の下で薄い唇をぽかんと開けたままロイエを見上げているのである。
「エーテルネーア様、大変失礼を致しました! 今すぐにひっ捉えて牢屋にぶち込んで参ります!」
ロイエは右隣に向かって直角に頭を下げる。その素早さにエーテルネーアの肩がびくりと震えて、ひと拍子置いた後に、今度は笑い出してしまった。
「んっふふふ……構わない、よ……ふふっ」
聖印の左手で口元を隠しながら何とか笑いを引っ込めようとしているたおやかな仕草が貴婦人のようにも見えて、シャオの無表情の視線が一瞬泳いだのが、自分でもわかった。
なにせシャオの周りは無骨な連中ばかりだ。父も軍人、友人も軍人、腕っ節の強いのが誇りのような男の中で育ったので、そんなふうに笑う仕草を目にするのが妙に気恥しかったのである。
「ふふっ……あぁ……、面白いものを見せてもらった」
そうのんびりと宣う声に、隊員たちの視線が一斉にエーテルネーアに向けられた。宗主様は皆の視線を受けながら、大きな革張りのソファの肘掛けに片手を突き、真っ直ぐに立ち上がる。
「ユニティオーダーはアークの盾。命を懸けて外敵からアークを護り、市街の治安維持に努めてくれている。貴方がたの働きに、僕は日頃から畏敬の念を抱いています」
ブーツの踵が高い音を立てながら二度ほど石敷きを弾き、東屋の階には風に煽られた黒いマントの端が垂れる。真昼の陽光に、仮面から伸びた金の鎖がきらりと輝いた。
「その左証として、この仕合いの勝者とは、アークの未来について素顔で語らうことをお約束します」
「エーテルネーア様ッ!」
「そんな……」
執政官が悲鳴を上げ、隊長が絶望に似た音を漏らす。その声は庭園中に響き渡る雄叫びの強さにすぐに掻き消され、歓声を浴びながらゆったりとソファに腰かけるエーテルネーアの口元には淡い笑みが浮かんでいる。
(ふうん……これが、『エーテルネーア様』か……)
シャオは教会宗主の口元に浮かんだ微笑みを視線だけで捉えながら、内心で感嘆にも似た声を漏らした。
なかなか胆の据わった御仁だ。仮面を被るのには何か特別な理由があるのだろうに、それをお遊びのような試合の褒美として簡単にくれてやろうと言うのだから、先程のたおやかな笑い方に反して予想以上に豪胆である。
「エーテルネーア様、何という御約束をなさったのです!」
ミゼリコルドが拳を震わせながら、今にもエーテルネーアを食い殺すような勢いでソファの肘掛けにしがみついている。
「大丈夫だよ。ロイエ隊長が勝ってくれるから」
「もしものことをお考え下さい!」
「考えている。たった一人だろう?」
「そういう問題ではありません……」
これに返したのはロイエだった。ソファの左の肘掛けに縋りつくようにしゃがみ込み、必死でエーテルネーアを見上げている。
「素顔が褒美だなんて、不相応です」
その嘆願にもゆったりと首を巡らせて、エーテルネーアは肘掛けに凭れるようにしながら仮面の乗った顔でロイエを見つめた。
「僕の素顔では褒美にならない?」
「そうではなく、貴方の素顔を褒美にするなんて勿体ない、という意味です」
「なら……、勝って」
「え……?」
ロイエの間の抜けた声音が肘掛けの上に転がり落ちると、それを拾うように、エーテルネーアは唇の上にふっくらとした笑みを浮かべる。
「勝ちなさい、ロイエ隊長。僕の名誉のために」
「――っ、必ず……」
結局引き下がったロイエの後ろ頭を見つめながら、シャオの視線には若干の呆れが乗った。
(だっさ……)
ちょっと微笑まれただけで簡単に折れる父親の姿なんか見たくなかった。格好悪すぎる。ロイエがチョロいのかエーテルネーアのほほえみが魅惑的なのかは知らないが、こんなふうにして重要事項の決定が進むのならばとても厭だな、と初めてアークのトップ三人の遣り取りを眺めていて思うシャオである。
「まったく! 不敬にも程度というものがある! あの狼藉者を今すぐ摘まみ出せ!」
「ミゼリコルド……」
執政官の激怒に、エーテルネーアがそちらを見遣ってゆったりと右手を上げる。
「元気があっていいのではないかな。若くて優秀な隊員が居てくれるのは、ユニティオーダーの未来が明るい証拠だ」
「御言葉ですがエーテルネーア様……、ライデンは貴方より二歳も年上です」
ロイエが腰を折るようにしてエーテルネーアに小声で告げると、角の生えた頭がこくりと傾けられる。
「そうなのかい? ずっと若く見えるな……シャオと変わらないくらいかと思っていた」
ふいに話を振られて、シャオは直立し無表情のまま視線だけをソファに遣る。
「あの者は中心区の古い家柄の出身なのです。下賤の出の私などの言葉ではどうにも制御ができません」
恐縮したように言うロイエに、シャオは今度こそ顔をそちらに向けて、ついでに半眼も向けてしまった。
ライデンはロイエの若い頃からの付き合いで、大まかに括れば親友と呼べる男だ。昔は積極的につるんでいたらしいし、下界の拠点基地で昇進に興味もなく遊んでいたライデンをナーヴ・ベースに引き上げたのは、当のロイエなのである。
なるほど、タヌキオヤジというのにはこうやって成るのか、と納得の瞬間である。
そんなシャオの内心を余所に、エーテルネーアは楽しそうに執政官を見った。
「ふふふ、ではミゼリコルドの仲間だね」
「エーテルネーア様ッ!」
「んっ、くく……」
「貴様! 何を笑っている!」
「っ、失礼いたしました。ライデンと闘ってまいります」
そう言いながら一度礼を取ると、ロイエは颯爽とロングコートを脱ぐと従僕に預け、逃げるようにして東屋を去ってゆく。シャオはロイエの抜けた穴を埋めるために、護衛らしく一歩、革張りのソファに寄って待機姿勢を取った。
ロイエが鞘に収まったままのロングソードを右手に提げて階を降りると、男たちが一斉に雄叫びを上げる。その歓声の中で鞘を抜いて放り捨て、剣先を目線の高さまで掲げた。対するライデンは防御姿勢も取らずに、ゆったりと芝の上に仁王立ちになる。
シャオは思わず、僅かに前のめりになった。
ユニティオーダー随一と謳われる剣戟の達人と、唯一と称される白兵戦の猛者。剣戟対拳闘の対戦は滅多にお目にかかれるものではなく、目にすることができるとすれば、それは下界での戦闘に於けるライデンの麾下に限られた。しかし、達人級の剣戟を扱う猛者など下界にはそう多くないから、戦闘の激しさはこちらの試合の足元にも及ばないだろう。
この対戦の価値を理解しているのは隊員たちも同じだった。先程までの雄叫びや騒めきは一切消え、辺りは二人の戦闘姿勢を前にしてしんと静まり返っていた。
審判が二人の間に割って入り、右手を天に掲げる。
「これより、最終試合を開始いたします。御二方、準備の程はいかがでしょうか」
「大丈夫だよ」
「いつでも、来いッ!」
「――はじめっ!」
開始の合図が響き渡っても、二人ともその場を動こうとはしなかった。ロイエは剣を構えたまま、そしてライデンはその場に仁王立ちのまま、十歩ほどの距離を空けて視線を交わらせながら睨みあっているのだ。
時が止まった二人の間隙を気流だけが通り抜けてゆく。
最初に動いたのはロイエだった。じりり、と右脚を交差させ、芝の上を擦るように左に身体を滑らせてゆく。それに合わせたようにライデンも右足を後ろに退き、ロイエと正面で対峙するように身体を移動させる。ゆったりと、じっとりと、睨みあったまま円を描くようにして二人の配置が入れ替わった辺りで、エーテルネーアが小声で囁いた。
「どうして二人とも闘わないのかな」
「間合いを図っているのですよ」
これに返すのは執政官だ。
「剣と拳では、身体の中心から殺傷能力を持つ部分までの距離が変わります。拳を振うにはロングソードの間合いに入らねばならず、それが成功すればロイエに不利になる。互いに交戦距離を測っていると、ああなるのです」
「ロイエの方が弱いということかい?」
「いいえ。得物は違えども実力は互角で、互いにそれを認めているから、どちらも安易に仕掛けられないのでしょう」
(へぇ……デキる人なんだ?)
執政官の適切な説明を耳に流し入れながら、シャオは片眉をピンと動かした。
聖職者が剣を握るなど聞いたこともないが、互角であるというのはある程度本当だし、実力を認め合っているのも本当だ。その上で互いに動けないことを理解している。この男には何か剣術の類の心得があるのかもしれない。
(護衛に俺、必要ないじゃん……)
シャオが唇をへの字に曲げたところで、庭先に動きがあった。
ロイエの鋭い声が刺すように響き渡り、刃尖がライデンの頭上に振り下ろされる。ライデンが一瞬で沈み込み、ロイエの腹に向かって右拳を振り抜いた。ロイエは身体をくるりと左向きに回転させ拳を躱すと、遠心力を利用して芝に掠った刃尖を力いっぱいに左に振り抜く。ライデンは拳を振り抜いたまま右に飛び込み、一回転して飛び起きてみせた。
速い。一連の動きが瞬きの間に終わり、気付けば二人はまた睨みあったままで止まった。ただし、ライデンは先程のように仁王立ちではなく、しっかりと腰を落とし、これから全速力で庭を駆け回りますと言い出すかのような姿勢である。
「ん~速いねぇ」
「そっちこそ、なんだその体幹は!」
二人は互いに口を開けて笑った。
一呼吸置いてライデンの右足が芝を蹴り上げる。瞬く間にロイエの構えた刀身の前に躍り出て、一気に地面に沈み込む。まるで身体が霧散して消えたのかと思うような速度で、気付けばライデンはロイエの右拳の下に潜り込み、腕を狙って拳を突きあげる。得物を落とす作戦だ。これには剣を振らず、素直に退避したロイエだが、どのみちその速度が目に見えないほどに、速かった。
(ライデンの負けかもね……)
二度切り結んだ、正確には切り結んではいないが、その遣り方を見ただけでシャオは勝負の大方の予想を付けた。
そもそも、ライデンの拳での戦い方というのは近接格闘である。
銃火器の使用が制限される烈度の高い状況で、ナイフやその辺りから拾ってきた枝や石を武器にして敵に接近して仕留める、という方法だ。ライデンの場合右手に持つ武器が皆無で、そのまま拳で殴りつけるというかなり原始的で野蛮な戦法なのだが、その戦法が最も有利に働く状況は奇襲と不意打ちなのだ。
対するロイエにはロングソードのリーチがあり、試合形式を採っているため、奇襲や不意打ちが難しい。どう考えてもライデン有利には働かないのである。
シャオの視線の先では、ロイエが剣先を躱されている。
ライデンは飛び退って両足で着地し、着地のバネを利用してロイエの右外側に左拳を突き出した。腕を執拗に狙う作戦なのだろうが、それを解っているのはロイエも同じだ。すかさず身体を捻り、刀身で拳を威嚇する。すぐさま飛び退るライデンは首筋に向けて刀身を水平に薙ぎ払われ、仰け反った鼻先を刃がすり抜けてゆく。橙色の頭髪がばさりと揺れ、小柄な体躯は片手を芝生に接地しながら真後ろに一回転した。
「すごいな……」
感嘆混じりの呟きがシャオの右隣から上がる。
何がすごいかと言えば、速さがすごいのだ。
切り結ぼうとする瞬間の動きがシャオにですらちらついて見えるから、エーテルネーアのように剣戟を見慣れない者にとっては、ただただ銀と橙が風に乗ってぶつかっただけのように見えるだろう。
(だけど、どうだろう。ロイエには上背があって体重も嵩む分、消耗戦に持ち込まれたらそのうち着いていけなくなる。ロングソードの一撃は重いけど、もし態勢を崩したら……)
事実三回切り結んだだけで、ライデンの素早さは充分に証明されている。それに対応できるロイエもロイエだが、剣の重みがある分追撃の速度では後手に回る。今のところ間合いを保つことに成功しているが、二連、三連と切り結べば、ライデンに胸元に踏み込んでこられるのも時間の問題かもしれない。
別にエーテルネーアの仮面を外させたいとは思わない。思わないのだが、アークの市民から英雄視されている剣豪が近接戦闘で拳に下るところは少し見てみたい。
などと、一介の軍人として性格の悪いことを考えてしまっているシャオだった。
「逃げてばかりじゃキマんないよ~?」
「そうやって大将の胆力を削る作戦よ!」
「性格悪いなぁ~」
いや、アンタが言うか。
とは思っても言わないシャオである。
また向かい合って間合いを図りながら、二人は芝生の上を一周する。ロイエが切り込み、ライデンが避ける。ライデンが反撃し、ロイエが躱す。ライデンが殴り込み、ロイエが身を翻し、追撃する。
じっくりと時間を掛けて十回ほど遣り結べば、ライデンの言葉の通りに、ロイエの体幹が少しずつブレてくる。いや、実際はそれほど大きなブレではないのだろうが、ブレたように、シャオの目には映っていた。
「ハァァアッ!」
ライデンの覇気に満ちた雄叫びの後に、その綻びは、形になってロイエを襲った。
正面から振り抜かれた右拳を避けたロイエの剣先が、ライデンの右脇を掠めて芝に落ちる。
次の瞬間――
「ぐ……っ!」
振り上げたライデンの左膝がロイエの生身の右肘を掠め、右手のグリップが揺れた。揺れたところに沈み込んだライデンの追加の右拳が脇腹に真っ直ぐに決まり、遂にロイエの右手からロングソードが離れた。
離れたそれは刀身を陽光に反射させながら回転し、青々とした芝に音を立てて突き刺さる。
ロイエはそれを横目で追いながら、腹を抑えたまま笑った。
「さっすが白刃戦の猛者、拍手したくなるね」
「大将こそここまで耐えられると思わなかったぞ!」
「痛み入ります」
(あ~あ、やっちゃった……)
この時、シャオは内心でライデンに同情していた。
ロイエが美しい笑顔を顔面に貼り付けている時は、かなり怒っている時である。一見して世界の総てを楽しんでいる子供のようにも見えるその笑顔の裏では、この世から虫一匹生き残らせはしまいとでもいいたげな感情を押し殺している時なのである。
その笑顔に騙されて調子に乗ったことのある子供の頃は、それこそ死ぬかと思うほどに説教で泣かされた。
ライデンも同じ目に合う。そう、シャオの直感が訴えている。
「剣が飛んじゃったから、僕はこのままで良いよね?」
「拾ってもいいぞ?」
「いやいや、その方がライデンくんが有利でしょ」
「なら……勝たせてもらうっ!」
言い切らないうちに、ライデンの右足が芝を蹴った。
目にも止まらぬ速さでロイエに近接し、一度沈んだかと思うと次の瞬間には空に飛び上がっていた。ゆったりとロイエの視線がそれを追い、目の前で腕を交差させる。
そこに手刀が落ちる。
防いだロイエはそのまま右脚を引き、ライデンの着地に合わせて足を払う。
無論それで払われるライデンではない。爪先で一瞬芝を踏んだ左足は、ロイエと距離を取りながら芝に着いた右足に引き寄せられ、そのまま蹴りに早変わりする。ブーツの踵を義手で払ったロイエは右拳を振り抜き、一瞬遅れて右から襲ってきた回し蹴りを躱しながら身体を沈める。ライデンの右脚に、宙に残った長い髪の先を掠めてゆく。
蹴りを躱されて、ライデンの上体が一瞬開いた。そこに鋭く拳を突き出すロイエ。
ライデンは両腕で防御し右足の着地と共に飛び退ろうとするが、ロイエの右拳がすぐさま大きく開かれ、防御のために交差させていたライデンの左腕が掴まれた。
義手の左手は間合いを図ろうと退いてゆく胸元を追いかけ、遂にライデンの胸倉をがっしりと鷲掴む――
そこからは、光の速さだった。
ロイエが両腕を突き上げる。
ライデンの両足が浮く。
弧を描くブーツの底。
翻る銀髪。
「……っが!」
庭先からズシッ! と地面が揺れる音がした。
ライデンの背中が芝に打ち付けられていたのである。
「ぐっ、カハッ!」
「投げ技に持ち込まれると思わなかったでしょ」
ロイエはすぐさまライデンの腹の上に肘を振り下ろし、そのまま体重を掛けながら左膝で体幹を固定した。
「終りだよ」
顔面目掛けて生身の拳が振り下ろされ、空に向かってライデンが低く呻いた。
一瞬、辺りは静まり返る。
一呼吸置いて、雄叫びが教会島の地面を揺らした。
「うおおおおおおおっ!」
「さすがロイエ隊長っ!」
「すげえ! 剣を捨てて拳で!」
「さすがアークの英雄ッ!」
男たちが口々に言い募り、中庭には一斉に歓声が巻き起こる。
それに気障ったらしく手を振りながら、ロイエは芝生に突き刺さった抜き身を一気に引き抜き、捨て置いていた鞘に戻す。鞘を腰に提げようとして、実戦用の帯剣ベルトが無いのを思い出したのか一瞬だけ呆けた顔で目を開き、すぐにすごすごと東屋に向かって歩いて来た。
(ほらね……)
この人を怒らせたらダメだ。
隊員たちの前でロングソードを手放させた。ああ見えて自尊心は人並みにあるので、剣士の誇りを傷付けられたらそりゃあ怒るに決まっている。
あのまま刃と拳で闘っていたら、ライデンの狙い通りに消耗戦の末に勝利できたのだろうが、それは飽く迄もロイエが剣を持っていた場合に限る。スラムのような場所でケンカに塗れながら育った男から剣を奪ったら、それはもう剣戟の作法や試合のルールから外れたただの乱闘でしかない。少なくとも、ロイエの中ではケンカの類にカウントされるのだ。つまり、拳がモノを言う。そうなれば、手足の長さの違うライデンに勝機はないのだった。
それを解っていてわざと煽り、消耗作戦を続けさせたのかもしれない。
(ほんと、これだから怖いんだよね……)
シャオが内心でロイエの柔軟性に舌を巻いていると、当の本人は東屋の階の下で止まり、エーテルネーアを見上げた。
「勝ちました」
「ふん、当然だ」
「信じていたよ」
ミゼリコルドは尊大に言い放ち、エーテルネーアは一度、小さく頷いた。
悠々とした微笑みを浮かべる隊長はしかし、激しく遣り合ったので髪は乱れ、黒いシャツの襟もとは縒れている。おまけにライデンのブーツの底か何かで擦ったのであろう掠り傷が、赤く薄い線が白い頬に数本描かれていた。
「痛くはない?」
「ただの擦り傷です」
その傷に、腰を浮かせながらエーテルネーアの左手が伸び、ロイエは擽ったそうに頬に触れられて子供のように破顔した。
(………?)
その遣り取りを間近に目にしながら、シャオは漠然とした違和感を抱かざるを得なかった。
いくら自分が預かる大組織の上司の行いだからといって、そのまま掌を受け入れている父の雰囲気が、妙に柔らかくて、温かかったのである。
(なんだこれ……?)
まるで母親に頬を撫でられている少年のように見えた。
ユニティオーダーはナーヴ教会膝下の軍隊だ。教会宗主のエーテルネーア様が自らご心配をなさったって、それを甘んじて受け入れているのは隊長としてどうなのか? 上下の規律とか、線引きとか、そういうものはこの場では必要ないということか? しかもシャオでさえなんだこれと思うような隊長の無遠慮を、ミゼリコルドが視界の端で黙認しているというのは更に解せなかった。
(どうなってんのこの三人……?)
父が家や隊の中でシャオに見せる顔と、エーテルネーアの前で見せる顔が、全く違う。違うように、シャオには感じられたのだ。
「エーテルネーア様! 納得がいきません!」
シャオの思考を打ち砕くように、クヴァルが庭先で大声を上げた。
腕には呻きながら漸く身体を起こしたライデンを抱え、睨み付けるようにして東屋を見つめている。
(あ~はいはい、そうは問屋が卸さないってか? ……ま、そうだろうね)
「ロイエ隊長はユニティオーダーの全拠点を預かる総司令です。強くて当たり前です! ロイエ隊長が勝つのは当然の結果なのではないでしょうか!」
「ちょっと待って! 僕が勝者と戦うことになったのは君たちのせいでしょ! 君たちが、僕に挑みたいって言ったからでしょ!」
これにはさすがにロイエも反論せざるを得なかったようだ。ソファの前の階で振り返り、急に付けられた難癖に唾を飛ばしながら言い返している。
「隊長との対戦に関しては、エーテルネーア様とミゼリコルド様が御許可を下さいました!」
この辺りの経緯はシャオは知らないが、教会宗主を楽しませるため(なのかどうかも知らない)の御前試合に隊長が引っ張り出されたのはひとえに、隊員たちがロイエと戦いたいと言い出したかららしい。しかも事前にそういう決まりだったのではなく、トーナメントが進むにつれて、場が暖まるノリに任せて自然に発生した対戦だったのだと思われる。
「確かに、許可しました」
ロイエは慌てたようにして東屋を振り返り、そしてもう一度中庭を振り返る。首の動きが異様に早く、その速度に猊下の横で吹き出しそうになるシャオである。
「御二方を巻き込むんじゃありません! 君たちは僕を負かしたいだけでしょ?!」
「違います! エーテルネーア様の御尊顔を拝見したいのです!」
クヴァルはなおも食い下がり、シャオはその姿に吹き出しそうになった。
クヴァルという男は謎の哲学を持ったクソ真面目な男な上に、敬虔に敬虔を重ねたナーヴ教会の信奉者である。単純に心の底からエーテルネーア様の御尊顔を拝みたいのだろう。
「ああもうっ、お綺麗な方ですっ! とても麗しい御尊顔でいらっしゃいます! 君たちにお見せするのは勿体ないです!」
「ロイエ隊長はズルいです!」
「クヴァルく~~~~ん!」
「――っははははっ!」
突然、遣り取りを耳にしていた執政官が高らかに笑い出した。
(びっくりした……)
そう思ったのは誰も同じだったのだろう。
ロイエはびくりと肩を震わせて東屋を振り返り、クヴァルも他の隊員たちも、呆気に取られてミゼリコルドを凝視している。
当の執政官は美貌の顔面で東屋の天井を仰ぐようにして大きく笑い、声のボリュームが下がったかと思えば、肩を震わせて口の中で笑いを嚙み殺している。
エーテルネーアがゆったりと右側を振り仰いだ。
「楽しそうだね」
「ええ、こんなに楽しいのは久しぶりです、エーテルネーア様」
「それは良かった。開催に向けて御璽を持ち出して良かったと心から思えるよ」
それに慇懃に一礼をして、ミゼリコルドは一歩前に進み出る。
「クヴァル、君の望みはロイエ隊長を打ち負かすことかな? それとも、不敬にもエーテルネーア様の御尊顔を求めているのかな?」
「っぐ……御尊顔は、拝見したい……です。ですが! ロイエ隊長とも闘いたいのです!」
(趣旨ズレてんじゃん……)
と、内心でツッコミを入れてみる。
「君の本心は、ロイエ隊長を打ち負かしたい、ということで間違いないんだね?」
「そうです!」
クヴァルが大きく、それはもう大きく頷いた。
やめて、と額を抑えたロイエを余所に、執政官は長く白い指を顎にかけて暫し考え込む素振りをする。庭先には少しの間沈黙が落ち、隊員たちが固唾を呑んで執政官の次の言葉を待っていた。
「よし、こうしよう。私が隊長と闘うことにする」
「っえええええええ?!」
周囲がどよめく中、一番大きな声を上げたのはロイエだった。
執政官の、いや、聖職者と軍人が戦う? そんな対戦が行われるはずがない。
あったとしても、ミゼリコルドがユニティオーダーの隊長に勝利する図など思い浮かべることができない。
誰もが内心で首を傾げながら、しかしミゼリコルドの身分の手前、口から疑問を吐き出せずにもごつき、その音が庭中に虫の鳴き声のようにざわざわと広がってゆく。
「しかしっ、ミゼリコルド様っ!」
「ミゼリコルド様に剣など向けられません!」
クヴァルもロイエも相当に焦った顔付きで東屋の下を見上げている。シャオも思わず右側に首を少しだけ傾けた。
「拳でも構わないがねぇ」
「そういう問題では……執政官の御身を相手に、仕合いなどできません」
「なるほど? 私では相手として不足だと言いたいわけだ」
「とんでもございません!」
「では、私がロイエ隊長と闘おう」
にやり、と音がしそうなほどのミゼリコルドの声音に、ロイエは視線を下げた。
(焦ってるね……そりゃそうか)
シャオはロイエの俯いた頭頂部を見遣り、次いでミゼリコルドを横目で確認する。
首からぶら下げた白いストラや装飾品を外しもせずに、黒い長衣を翻しながら執政官は悠々と階を降りてゆく。その後ろを若干猫背気味に、しかも首を横に曲げながら疑問符だらけの格好で着いていく隊長の姿はかなり格好悪い。
格好悪いが、仕方ない。シャオにも意味が解らないし、誰もこの展開を予想などしていないのである。
「手加減してくれるといいのだけど……」
ふいに、ぽつり、とエーテルネーアが呟いた。
視線を庭先からそちらに遣れば、ふかふかのクッションのソファに浅く腰掛けている教会宗主は相変わらず背筋をピンと伸ばしている。聖職者と軍人のミラクルマッチにもっと驚いても良いはずなのに、動揺する様子が一切ないのである。
「それはどういう……」
シャオは思わず小声で話しかけてしまった。エーテルネーアはこちらを見上げ、口元に笑みの形を浮かべる。
「ああ見えて、ミゼリコルドは強いんだ」
「はぁ……」
「お互いに熱中してしまったら、きっと誰にも止められないな」
「そう……、ですか?」
シャオは疑問とも感嘆ともつかない声を喉から絞り出す。
「でも……、そうだね。ロイエと闘うのだったら、尋常一様の方法では勝てないだろうね」
そう言って、エーテルネーアは仮面を庭先に向けた。
隊員たちに囲まれた芝生の上では、ミゼリコルドとロイエが睨みあっている。審判が二人の間に立ち、両腕を一直線に広げた。
「先程と同じように、ユニティオーダー内の模擬試合における『実践に於いて致命傷になりうる状態』で勝敗が決まります。ミゼリコルド様はその方法で宜しいでしょうか?」
「むろん、構わない」
「ミゼリコルド様、得物は……」
「そんなものは必要ない」
そう澄ました声音で言いながら、執政官は身体の後ろで手を組んだ。そう言われてみれば、確かにミゼリコルドはどこにも帯剣していなかった。拳士の聖職者など聞いたこともない。それなのに、エーテルネーアに強いと言われる理由が謎で、シャオは小首を傾げる。
一方で、ロイエは剣を抜くと、鞘を審判に手渡した。駆け回って執政官を転ばせでもしたら大変だ、と思ったのだろう。先程よりも丁寧な仕草でロングソードの刀身を身体の前に構えている。
「――はじめっ!」
号令と共に、審判が飛び退る。
両者、一歩も動かなかった。
ミゼリコルドは後ろで手を組んだままその場を動かない。執政官が動かない以上、ロイエも動きようがないのかもしれない。
両者一瞬たりとも視線を逸らさないのは先程のライデンと同じなのだが、その視線の種類には先程の対戦とは雲泥の差がある。火花がぶつかり合うよりも、蔓性の植物がお互いに向かって枝を伸ばしねっとりと絡み合うような、そういう類の視線であった。
(心理戦か。こういうの、苦手なんだよね……)
シャオは苦手だ。とりあえず撃ってみたくなる。そしてそのシャオを育てたロイエも、心理戦はそれほど得意ではない気が、息子にはしていた。
ロイエは一見悠長でマイペースに見え、それはある意味正しい評価なのだが、実は意外と短気な側面もある。笑顔とのんべんだらりとした口調で上手にマスキングしているし、事前に石橋を叩く執拗さは指揮官として兼ね備えているが、土壇場に遭遇した時の頭の働かせ方は豪胆そのものだったりする。本質的にはなかなかどうして、熱い男なのだ。
それがミゼリコルドにバレていれば、もしかすると、拳一つで伸されるかもしれない。ライデンと闘った直後というのもあるし、相手が自分の上司というのもある。
(どうするんだろ……)
ライデンとの試合よりも、余程緊張する。シャオは後ろで両手を組む待機姿勢を取りながらも、握りしめた拳に薄っすらと汗をかいていた。
二人は見つめ合っていた。息遣いすら聞こえず、衣擦れの音すら立てない。
十歩あるかないかの二人の距離は、遠目には永遠に巡り合えない途方もない道のりのようにして二人を離れさせて見せている。
その間を換気用の気流が柔らかに通り過ぎ、執政官の真っ白いストラが揺れた。どこからともなく庭先に小鳥が迷い込み、東屋の前をすいすいと横切って行ったが、誰も二人から視線を逸らさなかった。
「審判――」
ふいに、ミゼリコルドが手を挙げた。
「なんでしょう」
審判が応える。
「ロイエに伝えなければならないことがあったのを、今思い出してしまったよ。伝えに行っても良いかね?」
「……ご自由になさってください」
どこからともなく、息が漏れていた。それは二人を囲んでいた隊員たちも同じだったようで、微かな溜息がそこかしこから漏れ聞こえてくる。
ミゼリコルドは軽く頷くと、ロイエに向かって歩き出した。手を後ろに組んだまま、悠々と、まるでいつも通りに歩廊を歩いているような確かな足取りだった。
三歩歩いたところで、ミゼリコルドは声を上げる。
「ロイエ、昨日話した中心区の件だがね」
「今……、ですか?」
ロイエが訝しげな声音で聞く。微かに肩の力が抜け、構えていた剣先が揺れた。
更に三歩進む。
「どこだって構わないだろう? 昼食の時に書簡が届いたのを今思い出したんだ」
「ですが、この場には不釣り合いです。皆に聞こえます」
「なら一瞬、耳を貸してほしい」
更に三歩、進んだ。
「――――」
執政官の左手が内緒話をするように、口元に当てられる。
次の瞬間――、
(――速いッ!)
二人の身体が衝突していた。
ロイエの首元で、ぎらり、と光線が発射される。
瞬きよりも速く、ミゼリコルドの左肩がロイエの胸に押し付けられていたのである。
(どうなってる……?!)
シャオは一歩踏み出した。
ナイフだ。
光線は、ナイフの刀身で跳ねた陽射しだ。
ミゼリコルドの右手が、ロイエの左の頸動脈に、ごく小さなナイフを押し当てているのである。
エーテルネーアの吐息が右の鼓膜を掠めた。
ロイエの右手からロングソードが落ちた。
その刀身は地面と水平にロイエの右手を離れてゆき、とさり、と軽い音を立てて芝生の上に落ちる。
「クヴァル、これで満足かい?」
「………、っ……はい」
クヴァルが縦とも横ともつかない方向に頷いた次の瞬間、庭先にはどっと狂喜の大喝采が巻き起こっていた。
「嘘だろっ……!」
「なんだあれ!」
「ロイエ隊長が負けたぁぁあ!」
「ミゼリコルド様ああっ!」
「うおおおおおっ!」
雄叫びと歓声と拍手の渦の中で、ロイエだけがただ、蒼褪めた顔つきで薄い刀身の押し付けられた首元を掌で押さえていた。
ミゼリコルドは悠々とした仕草で左の袖口から細い鞘を取り出すと、ロイエに向かって振って見せる。
「随分と油断したねぇ。これは護身用だよ」
「………、お見逸れいたしました」
紺碧の両眼に笑みを浮かべながら、ミゼリコルドはわざとらしく鞘に刀身を納める。それはよく見れば、なんてことはない、ただのペーパーナイフである。その刃渡りは十センチ程にも満たないのに、よく手入れが行き届いているのか、刀身が鯉口に納まる間中、ぎらぎらと陽光をそこら中に跳ね返していた。
(あの人、ほんとにデキる人だったんだ……)
しかも、一般的な剣術ではない。ライデンと同じ近接戦闘、その中でもナイフを使った超短距離の接近術である。
(護身術、ではあるけど……危ないな)
そう思うのはロイエも同じだったのか、審判から鞘を受け取りながら剣を納める間も、その視線はミゼリコルドの挙動を殆ど睨むようにして注視している。
それににこりと最上級の笑顔を返し、ミゼリコルドはこちらに戻ってくる。その後ろ姿にロイエも数歩遅れて続く。
ロイエの眼光は鋭かった。眼光が雷なら、執政官を後頭部から焼き殺しているほどに、容赦がない。その視線の意味をほぼ真正面から観察していたシャオは、内心で父に頷き返す。
(わかるよ……ムカつくっていうか、ヤバいもんね)
階の下に並んで立つと、ミゼリコルドはまるでこれからダンスにでも誘いましょうかというような華麗な礼をしてみせる。対するロイエは、強張った表情のままエーテルネーアを真っ直ぐ見据えていた。
「申し訳ございません、エーテルネーア様」
「どうして謝るんだい?」
「アークの守護を預かる身でありながら、負けました」
目に見えて緊張している隊長の姿に、当の教会宗主は口元を抑えてくすりと笑う。
「今のは反則だね。……やはり、ロイエ隊長がアークで一番強いのには変わりない」
「精進いたします」
ロイエは一度最上礼を取ると、その場で待機姿勢を取る。護衛に戻ってくるのかとシャオは一歩左後ろに退いたのだが、負けた直後にエーテルネーアの隣に戻るのは決まりが悪いのだろう。許可があるまで戻らないつもりだ。
その殊勝な態度に、宗主様は一度頷いた。そしてロイエの隣に同じように直立していた執政官に声を掛ける。
「さて、ミゼリコルド。君には何を褒美にすればいいんだろう」
「そうですねぇ……」
執政官は長く白い指を顎に添えてしばし考えた後に、美貌の顔面に薄っすらとした笑顔を浮かべる。
「では、エーテルネーア様の指輪を一つ、頂戴いたしましょう」
「指輪……?」
小首を傾げながら、エーテルネーアは自分の左手を見下ろした。そして中指から金の三連リングを抜き取ると、ミゼリコルドに向けて掲げて見せる。
「これで良いだろうか」
「充分です……頂戴いたします」
執政官は階を登り革張りのソファの前に進み出ると、片膝を突き低頭し、恭しく両手を頭上に掲げる。その両手に指輪を落とすエーテルネーアは相変わらず不思議そうに小首を傾げていた。
「エーテルネーア様。賜った指輪は私の好きにして構いませんでしょうか?」
「君にあげたものだ」
その声に一つ頷くと、ミゼリコルドはソファの横、定位置に移動して中庭を振り返る。そして円を描きながら遣り取りを見守っている隊員たちに向かって、その指輪を高く掲げた。
「ユニティオーダーの諸君! 日頃の鍛錬の成果を、本日の御前試合でよく確認することができた。君たちの雄姿に、今私は心から満足している」
中庭からは野太い歓声が上がり、ミゼリコルドは澄ました顔つきでそれに頷いて見せる。
「ここにあるのは、エーテルネーア様御自ら私に賜った、大変貴重な指輪だ。この崇高なる褒美を、君たちユニティオーダーをここまで育て上げた功績者……、アークの英雄、ロイエに捧げよう!」
「えっ……?!」
湧き起こる歓声を背後に受けながら、ロイエは両眼を見開いて固まった。この場でなければ大笑いしてやりたいほどの見たこともない顔をしているが、執政官殿は本気のようなので、シャオはなんとか唾を呑み込むことで真顔を保つことに集中する。
「ロイエ、前に」
「は、……え、……はい?」
「早くしないか」
「っ、はい……」
促されてロイエは階の下まで歩み出ると、ミゼリコルドと同じようにその場に片膝を突き、低頭し両手を頭上に掲げた。そこに指輪を乗せられて顔を上げると、義手の掌の上に乗った輝きをしげしげと見つめている。
あの指輪は、アークの金相場でどれくらいになるのだろうか。ロイエが宿舎に戻り次第換金させて今日の日当くらい貰おう、などと冗談半分に思っていると、ロイエは顔を上げ、真顔で執政官を見つめた。
「私は敗北した身です。褒章は受け取れません」
ミゼリコルドはそれに悠々と返す。
「エーテルネーア様も仰っただろう? 私の技は反則だよ」
「………」
ロイエは掌の中に視線を落とし、一瞬何か考えているようだった。そして顔を上げるなり、執政官を見つめる。
「頂戴した褒美は、私のものということで良いのでしょうか」
「構わないよ。好きにするがいい」
「ありがとう存じます」
執政官の居丈高な物言いに慇懃に腰を折って礼を言うと、ロイエは中庭を振り返る。遣り取りを見つめていた隊員たちの視線が一斉にロイエに注がれた。
「皆見ての通り、今私は、アークを支える偉大なる執政官のミゼリコルド様から褒美の品を賜った。私への褒美ではない。これはユニティオーダーへの称賛であり、たった今、ユニティオーダーの宝になった」
呼応するように男たちが叫び、拳を上げる。
「しかし、皆は決して忘れてはいけない。我らユニティオーダーはアークの盾、ナーヴ教会を守る盾である。それゆえに、ナーヴ教会は我らの総てを励まし、見守っていて下さっている」
ロイエは明朗な声音でそこまで言うと、東屋を振り返り、階を登ってエーテルネーアの前に片膝を突く。
「エーテルネーア様、御手を拝借しても構いませんでしょうか」
「………、はい」
エーテルネーアが戸惑ったような声音と共に頷き、右手を差し出した。それを恭しく取ると、ソファの前に立ち上がらせる。ロイエはその左側に立って、右手を天井に向かって高く上げた。その指先には褒美の指輪が掲げられている。
「今こそこのユニティオーダーの宝を以て、ナーヴ教会へ忠誠を誓う時だ! 寛大で慈愛に満ちた教会宗主エーテルネーア猊下に、ユニティオーダーの誠心を捧げるのだ!」
そう高らかに宣言すると、ロイエはエーテルネーアに向かって片膝を突いた。流れを理解したのだろう、エーテルネーアはロイエの方に向き直ると、ゆったりとした仕草で左手を差し出す。
ロイエは目の前に差し出された左手を取ると、中指にそっと、金の指輪を通す。聖印に最も近い場所に嵌められた指輪は、東屋の下に射し込んで来る陽光を反射し、庭先に一瞬、光を投げかける。ロイエは信者がやるようにしてエーテルネーアの左手の甲に恭しく口づけを贈った。それを受け取るエーテルネーアの口元には、柔らかな笑みが浮かんでいた。
口づけが終わると、宗主は東屋の外に向かって左手の甲を掲げて見せる。
「ロイエ隊長、そしてユニティオーダーの皆さん……貴方がたの真心は今、確かにこのナーヴ教会宗主、エーテルネーアが受け取りました。誠心に心から感謝いたします」
エーテルネーアの明瞭な声音に庭先に一斉に雄叫びが上がり、教会島の空に満ちる空気という空気を震わせる。
「これからもアークを護る盾として民に尽くして下さいますよう、教会を代表して……、いいえ、僕自身からお願い申し上げます」
拍手と歓声が地響きのように東屋に押し寄せて、エーテルネーアは一度左右に視線を遣って頷いている。
シャオは一連の遣り取りを目にしながら内心で鼻白んでいた。
(なんだこの茶番……馬鹿々々しい)
御前試合の優勝者が宗主様の御尊顔を賭けて隊長に挑むまではいい。そこから執政官が隊長に勝負を挑んだところから話の筋がズレている。アーク随一と謳われる剣豪が執政官に不意打ちで負けるのもあり得ないし、勝った執政官が身内であるはずの宗主に褒美を強請るのも変だ。更にそれを隊長に下賜するのはまああり得るが、どうして隊長がその褒美を元の持ち主である宗主様の指に嵌めて返すのだ。
結局、エーテルネーアの指輪が三人の中を一周しただけだ。
それなのに、隊員たちは雄叫びを上げて盛り上がっているし、三人はその光景に満足しているようだ。エーテルネーアを見つめるミゼリコルドの顔付きは心底満足そうで、表情こそわからないが、ロイエも恐らく唇に笑みを浮かべているくらいはしているのだろう。
そもそもそのロイエ隊長の口から『教会への忠誠』なんて言葉が出てくるのがまず妙なのだ。絶対本心じゃない。ありえない。それなのにミゼリコルドの意図を悟ってなのか、すぐさまそれに順応した。
要はユニティオーダーの指揮を高める演出に変えたのだ。
(大人って汚いなぁ……)
そう考えると急に、御前試合の意味も、この場に自分が呼び出された意味も、そして父が隊長として教会に仕えている意味も、全く意味のないものに感じられ始めてしまった。体裁のため、アークのため、見掛け倒しの忠義の輪を見せびらかしただけか。
(………、帰りたい)
シャオはぼんやりと、調光シールド越しの青空にぽつりと浮かぶ小さな雲に視線を遠ざけた。
「エーテルネーア様、大変申し訳ございませんでした」
「どうして?」
「教会から賜ったものとはいえ、身に付けていらしたものをそのままお返しすることになり……」
「君ならこうするだろうと思っていたんだがねぇ?」
「いえ……、ミゼリコルド様のお考えは察しておりました。ただ、エーテルネーア様のお気持ちを蔑ろにしてしまったのではないかと思い……ですので、謝罪いたします」
庭先で巻き起こっている興奮混じりのざわめきを耳にぼんやりと遠くを見遣るシャオの右側で、アークの偉い大人たちが内輪の話を始めてしまった。
「君にはめて貰えて嬉しかったよ」
「それならば良かったのですが……。後日何か別の物を献上いたしますので、」
「君の給料で贖える程度の粗末な品をエーテルネーア様に献上すると?」
「ミゼリコルド……」
「いえ、あの、お給金三か月分程度のもので宜しければ……」
何の話だ。プロポーズか。
こんな話を宗主様の御側付きはいつも延々と聞かされているのだろうかと思うと、可哀想すぎて同情したくなってくる。
「そんな高価なものはいただけない」
「いいえ、高価なものはご用意できません、すみません」
甲斐性なしか。
「そうではなくて、三か月分は高価だよ。給金はロイエのために使って欲しいから……」
そう謙虚に仰る教会宗主の声音はひどく消沈していて、遠くを見遣るシャオの顔面がだんだんと渋面に変わり始める。
どういうことだ? この言い回しだと、欲しいということか?
「必ず、献上いたします」
そしてこちらは、あげたいということか?
遠のいていた思考を一瞬で整理して、シャオは突然、閃いたようにして気付いてしまった。
(あれ……、そういうことか……)
先程この二人の間に感じた微かな違和感の正体に感付いた後は、白目を剥きながら真後ろに倒れたくなってしまった。
父親の色恋なんてできれば知りたくなかった。しかも相手は上司であり、この世で最も高貴な人だ。更には、既に出来上がっているのではなくて、こんな茶番に託けてしか贈り物ができず、それを素直に欲しいと言えない関係でしかない。加えて二人きりでは取り出し難い類の話だから、今この場でしなければいけないということなのか。
(ガキの恋愛かよ。いい歳のクセして……、だっさ)
そう思う反面で、シャオはどこか、くすぐったいような感覚が自分の胸の裡を巡っているのに気付いていた。
「猊下の御誕生日は何月ですか?」
「……、十一月です」
急に声を掛けられて、驚いたようにエーテルネーアがこちらを見上げた。
「だったら、トパーズですね。――父さん、耳飾りなんていいと思うよ。いろんな色があるから、猊下の瞳の色と合わせたら素敵だと思う」
平坦な声音でそう言いながら、ロイエを見た。
「最近アークの若者の間では、ピンクの石を贈り合うのが流行ってるよ。願いが叶うようにってね」
「そんな流行があるのだね? 僕はあまり市街のことに詳しくないから……シャオは物知りだ」
仮面の下でエーテルネーアの唇が微笑した。
「早速宝石商でも呼び寄せましょう。ロイエ隊長の甲斐性を見せて頂かなければねぇ」
「今すぐですかっ!?」
「厭なのかな? 君という男は己の発言の責任も取れないのかい? そんな男に隊長を任せてはおけないねぇ」
「いいえ、今すぐで構いません」
ミゼリコルドが喜々として声を上げ、エーテルネーアも何も言わずににこにこしているだけなので、助け舟を期待できずにロイエは覚悟を決めたようだった。それを横目に、シャオは東屋の階を南側に向かって降りた。
「では、執務棟に戻りましょうか」
「そうだね……、遊んでばかりもいられないし……」
エーテルネーアは心底残念そうに呟くと、姿勢を正して庭先に声を掛ける。
「皆さん、本日は素晴らしい戦いを見せて下さいまして、ありがとうございました。またいつか、貴方がたの仕合いを拝見できますよう……それまでどうぞ恙なくお過ごしください」
教会宗主が少し腰を落とし導師の挨拶をすると、隊員たちは一斉に最上礼を取る。
「解散だ! 持ち場に戻って仕事に励め!」
ミゼリコルドの号令で一斉に隊員たちが動き出し、庭先が騒がしくなる。それを見遣り、執務棟へ向かって歩き出したエーテルネーアにロイエが左手を差し出す。
「御足元にお気をつけて」
「ありがとう……」
小さく礼を言いながらその左手を取り、石の階をゆっくりとエーテルネーアが降りてくる。階下で目礼し宗主様一行が通り過ぎるのを待って、シャオは東屋を通り過ぎると、庭園の中央に生えた楡の木の方角に向かって歩き始めた。
ふいに、エーテルネーアが振り返った。
「御子息はもう帰ってしまわれるのかな」
「どうでしょうか。――シャオくん」
背後で自分の名前が聞こえたが、無視を決め込んでどんどん芝を踏んでゆく。
ピンクの石を贈り合うなんて、そんな流行あるはずもない。シャオの嘘で、からかっただけだ。からかっただけとはいえ、後日教会宗主の耳元で可愛らしい色の石が揺れていたらかなり面白い。面白いし、それはそれで見てみたいなとも思う。
「シャオくん!」
アークの英雄だの勇者だのと謳われているロイエは、その実はなんてことはない、ただの四十一歳の中年男だった。
若いうちから自分の子供でもないシャオを拾い、片腕で抱えながらユニティオーダーを指揮しアークのために毎日汗水たらして働いている。そのことを一番よく知っているのは、誰より息子のシャオである。
しかしロイエは、自分で自分のことを立派だなどとは一つも思っていない。
それが当たり前で、普通だから……、だからロイエはシャオの中では、アークの市街のどこにでもいる普通の中年男なのだ。
そんな父が、息子であるシャオの他に、何か大切なものを見つけたらしい。相手が誰だって、そんなものは関係ない。東屋の下に溢れ出たそれを偶然目の当たりにして、関係ないのだと、そう思った。父の心が安らいで、その安らぎを護りたいと思うのなら、シャオとしては正直なんだっていいのである。
だってロイエという人は、アークのためとか、ユニティオーダーのためとか、ナーヴ教会のためとか、そんな大きなもののために立派になった人じゃない。
立派でいられる人じゃない。
強くいられる人じゃない。
目測できない大きな世界を背負って立つロイエなんて、そんな父の姿をシャオは知らない。
「シャオくん!」
遠くで自分を呼ぶ声がする。
シャオは楡の木を通り過ぎ、東の外れの古書庫を目指して真っ直ぐに歩いてゆく。
シャオの目に映るロイエは、本当にただの、普通の男だ。
息子の自分を大切にしてくれて、ユニティオーダーの隊員たちに遊ばれながらも威厳を以て接し、アークの人々の顔を一人一人よく覚えている。隊長としての責任は確かに大きいが、制服を脱げば、温和な顔をして肩凝りを気にしている、どこにでも居る普通の男だった。
どこにでもいる、普通の、父親だった。
「シャオくん!」
自分がアークを愛しているかなんて、未だによく解らない。
自分はただ、運が良かっただけ。
運が良かったから、ロイエに出会えた。運が良かったから、今こうしてここで息をしていられる。
それだけだ。
だからたぶん、アークのことなんて未だにどうでもいいのかもしれない。
ただ、アークにどこにでもいる、普通の人間になりたかった。
ただ、父のようになりたかった。
自分の大切な誰かを守って、誰かを愛して、誰かのために死んでも良いと思えるように、その人に恥じないように生きる。
そういう人間になりたかった。
父はそういう人で、父とは多分そういう存在で、だから立派で、だから好きで、だから尊敬していた。
それがシャオにとっての普通で、『理想』だった。
ただひとつの、『現実』だった。
そういうふうに、アークを護りたかった。
ただ、それだけだったのだ……
「シャオ……っ!」
(うるさいなぁ……そんなに呼ばなくても、ちゃんと聞こえてるって……)
そう呟こうとして、なぜか失敗した。
唇が動かなかったのだ。
急に初夏の風が止み、楡の木のざわめきが遠のいてゆく。
足元の芝生が消え、生ぬるい温度の中に手足が沈んでいる感覚がした。
ふいに身体を揺すられて、遠くでロイエが何かを叫んでいる気配がする。
「………何が」
何て言ってるの。
聞こえないよ。
耳を欹ててもざあざあと耳元で雨が降っているみたいで、鼓膜は父の声を何も伝えてはくれなかった。
「何が起きた」
(なんだ……おんなじだった……)
「答えてください……」
(お父さんと………、おんなじ………)
「答えろ! 天子っ!!」
義手の左手が食い込んでくる。
その痛みもだんだんと肌の上で緩やかに溶けて、境界をなくしていくようだった。
(お父さん……護ったよ……)
シャオはほほえんだ。
ほほえもうとして、また失敗した。
それでもなんとか、父に向かって笑顔を向けてみせる。
(ちゃんと、……まもったよ……)
頬に何かが降った。
雨だ。
雨が降っていた。
シャオは空を見上げた。
調光シールドの越しの空は青い絵の具を撒いたように澄んだ色をしていて、雲一つない晴天だった。
こんな日は昼寝をするに限る。
古書庫の傍は西陽が射し込んでいつまでも温かいから、夕方近くまで寝過ごしても風邪を引かずに済むだろう。
「シャオくーん!」
楡の木の向こう側から、父の声が、シャオを呼んでいた。
エーテルネーアもこちらを見つめ、淡く微笑んでいる。その後ろからミゼリコルドが何かを鋭く喚いていて、押し出されるようにして三人の後姿は執務棟へと動き出した。
遠くからライデンの笑い声が聞こえた。
クヴァルも負けじと何かを言い返している。
本当にうるさい連中だ。うるさいが、楽しい連中なのは間違いない。
せっかくの休みだったのにとんだ災難だった。
災難だったが……、こんな日もまあ、別に悪くはない。
漸く古書庫の石壁にたどり着くと、シャオは芝生の上にどっかりと腰を下ろす。
初夏の教会島は草木の香りに満ち溢れていて、その空気を胸いっぱいに吸い込むと、なぜだかとても、心がふわふわした。
(おれの……、アークを……、……まもったよ…………)
シャオは一度青空に向かって両手を広げると、あくびをしながらゆったりと、瞼を閉じた。
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