耳飾り
- rain
- 2024年12月20日
- 読了時間: 26分
更新日:2024年12月21日
九尾視点、葛ノ葉にて
★24時に修正しておりますので、リロードしてから読んで下さい;;
【 壱 】
「店長、聞いたかい? 例の噂を――」
『らーめん葛ノ葉』に不穏なうわさ話が持ち込まれたのは、昼餉の時刻も大分過ぎた頃であった。
昼餉、といっても店を訪れる妖怪たちの波が引いていった頃合いをそう呼んでいるだけなので、正確な時刻はわからない。今日も今日とて、葛ノ葉には様々な妖怪がふらりと訪れては、ラーメンをすすり熱燗を片手に談笑して、去ってゆくのである。
九尾の狐はふっさりとした巨大な尾を面白そうに揺らしながら、『例の噂』を残して男の去って言った方角を眺めていた。
「ありえないだろ!」
店に残っていた最後の客が帰っていったのを確認して、開口一番にそう言ったのは鎌鼬である。
お揚げのようにこんがりとした色の両耳をぴくぴく動かして、拳を握りしめながら激昂している。
「そう怒るんじゃないよ」
「そうだよ鎌鼬~耳がどっかに飛んで行っちゃうよ~?」
「飛んでかねえよ!」
鬼火はカウンターに頬杖を突いて、ニコニコ笑いながら両足を揺らしていた。持ち込まれた噂を信じていないのか、はたまた鎌鼬の激昂を面白がっているのか。
「だって、ありえないだろ! あの烏天狗だぞ?」
「そうだね……」
火にかけられた寸胴鍋の奥、スープが長い尾に跳ねない場所に置かれた丸椅子に腰掛けながら、九尾の狐は閉じた扇子で口元を隠した。左指の人差し指は、赤い爪でトントンと傍らの卓を叩いている。
『烏天狗の羽が毟られていた』
持ち込まれた噂というのは、大層不穏な類の話題だったのである。
「あの烏天狗が背中の羽を触らせるか? 何か、戦闘にでも巻き込まれたんじゃないのか?」
「そうかも? また誰かが烏天狗に勝負を挑んだのかなぁ?」
「この灯影街にそんな阿呆が居るわけないだろ!」
「えー、わかんないよ? 最近灯影街に来た獣憑きなら、そういうの知らないのかもしれないし?」
「妖力を感じられないのなんか刀衆だけじゃないか!」
「たしかにー?」
「………」
鬼火と鎌鼬がああでもないこうでもないと憶測を並べ立てるのを横目に、九尾の狐の胸中は密かに騒めき始めていた。
(烏天狗の、羽が……、ね)
鎌鼬の言うことではないが、妖力も強く、腕っ節も気概も十二分にある烏天狗が、羽を毟られるなんてことがあるはずがない。羽どころか、手のひらで着物に触れることすら、なかなかできることではないのだ。
なにせ、恐ろしいから。
(まあ、どうせいつものガセネタだろうさ)
この灯影街は巨大なようにみえて、その実は小さな集落のようなものだ。こちらの世界自体はそうそう狭くはないのだが、街に出入りする妖怪の殆どは顔見知りで、出入りしない妖怪は幻界に引き籠っていることが多い。
数百年面子が変わらないとくれば、目新しいことも早々無くなる。そんなわけだから、灯影街に出回る噂話というのには、たいてい長く巨大な尾ひれがつくものなのである。
今回もまたそんなカラクリだろう。
九尾の狐は二匹の遣り取りに耳を傾けながら、胸の中に浮かび上がった不穏な芽を静かに摘み取ろうとした。
だいたい、烏天狗の羽を毟るだなんて、どこの莫迦がしようというのだ。いくら新入りの獣憑きであったとしても、あの巨大な妖力の前では恐れ慄くだろう。ましてや灯影街に出入りする面子であればなおさらだ。
大妖怪と詠われて烏天狗と同格に扱われる九尾の狐ですら、扇子の先でちょいちょいと腕を突く程度である。控えめな蛟に至っては、腕が触れあうような距離に居るのは葛ノ葉の店先に居る時だけだろう。
我々だとてそうなのだから、あの大妖怪の背中に誰かが触れられるはずがないのである。
「なんであんな噂話が持ち上がったんだよ」
「ほんとだね? 出所はどこなんだろう?」
「お邪魔するよ」
二匹が口々に言い合っているところに、暖簾の向こうから声がかかった。
「らっしゃい!」
「あ! 蛟だっ!」
暖簾に頭が引っ掛からないように身体を屈めながら現れたのは、なんと蛟である。
滅多に灯影街に姿を現さない、特に葛ノ葉には早々やって来ないはずの妖怪に、九尾の狐は薄桃色の耳を思わずピンと前に向けてしまった。
「ずいぶん珍しいじゃないか」
「いや……、気になる話を耳に入れてね……」
どうやら座り込んで話をする気は無いようで、蛟は屋台の天井に角をぶつけないように少し屈んで立っている。その表情はどこか曇っており、言葉尻も歯切れが悪い。
暖簾の向こう側では、相も変わらず姿を持たない低級妖怪が宙を彷徨いながら集まり始めていた。葛ノ葉に至る道すがら引っ掛けて来たのだろうが、蛟の行く先はまるで妖怪を引き連れた大名行列のようだ。
「その……、噂を聞いたかい?」
「烏天狗の?」
鬼火が言うと、蛟は小さく「ああ」とどこか諦めたような感嘆を吐いた。
九尾の狐は先刻爪の先で摘んで捨てたはずの芽を、にわかに土に植え直した。
「おまえ様の耳にまで噂が届いてるのかい?」
「そうだね……、なんというか……」
蛟はまた居心地が悪そうに言葉尻を濁す。
「それで、噂の烏天狗は今どこに?」
「見てないんだよなぁ」
「葛ノ葉には来てないよ?」
「そうか……」
黄金色の二つの目玉がこちらに視線を送っている。九尾の狐も、牡丹色の視線を黄金色のそれに絡めた。
言いたいことは充分に解る。だからこそ、捨てた芽を埋め直したのだから。
二匹は一瞬見つめ合ったが、九尾の狐はゆっくりと瞬きをした。
薄桃色の長い睫毛がふさりと動いたのを確認して、蛟は心配そうに彼を見上げている鬼火と鎌鼬にほほ笑みかける。
「ただの噂話だと思うけれどね」
「でも、ボクはちょっと心配だよ……」
「オレも。噂話にしては野暮すぎるんだよな……」
しゅんと落ち込んだ二匹の肩を優しく叩きながら、蛟はまたほほ笑んだ。
「私はこれから幻界に戻って烏天狗を探してくるよ」
「おまえたちは灯影街の奴のねぐらを見ておいで。噂の出所がどこなのかも、調べてきてほしい」
「わかったよ!」
鬼火が元気よく片手を挙げた。
「鎌鼬。おまえも行ってきておくれ」
「でも、店はいいのか?」
さっきからそわそわと尻尾を揺らしているくせにそんなことを言うので、九尾の狐は扇子で鼻先から下を隠して、牡丹色の目をにんまりと歪ませた。
「おや、ずいぶん真面目な丁稚だねぇ」
「丁稚じゃねえし!」
「今日はもう店仕舞いだ。わたしも、噂の真相が気になるしね」
九尾の狐は楽しげに唇の端を吊り上げながら、二匹をしっしと追い払った。
二匹が暖簾を跳ね除けながら往来に駆け出していったのを見届けて、蛟も暖簾に手を掛ける。
「蛟……、頼んだよ」
「ああ」
会話は、たったのそれだけである。
絡ませた視線の意味を問うまでもなく、蛟には伝わっている。なにせ、そういう『決まり』だからだ。
店先から長身の妖怪が出て行った後には、急に屋台が広くなった気がした。
広くなったのではないのか。往来をゆるやかに流れる空気が、少し冷えたのか。いつも騒がしい二匹も遣いにやったから、それで余計に店先が寒く感じるのかもしれない。
(蛟までやってくるなんて、ね……)
九尾の狐はゆっくりと丸椅子から尻を上げると、屋台の調理場に設置された二つの寸胴鍋の炎を、そっと、消し去ったのだった。
【 弐 】
半刻を過ぎても、葛ノ葉には何の新情報ももたらされなかった。
九尾は調理場の後ろ、座布団の乗せられた丸椅子に腰掛けながら、若干の苛立ちと共に長い爪の先で扇子の地紙を弾いていた。
(どうにも、きな臭いね……)
灯影街に一体何が起こっているのだろう。
あの烏天狗が羽を毟られるだなんて、相当な事件である。どこぞの莫迦が勝負を挑んで烏天狗が傷付いたのならまだ良いが、もしも外部からの襲撃にでも遭ったのならば、九尾の狐はこんな場所で扇子を弄って遊んでいる場合ではないのである。
暖簾を上げて座ろうとする妖怪は何匹かいたが、九尾の狐の不機嫌を察してか皆一様に踵を返してゆく。暖簾を外してはいないのだが、スープの入った寸胴鍋はとっくの昔に冷えていた。
事の次第によっては、灯影街の住人達は呑気にラーメンなど食べている場合ではない。九尾と蛟の取り越し苦労だったとしても、情報の如何に関わらず、今日はもう店仕舞いしたい気分であった。
「こういう時に動き回れない立場というのは、厭だね……」
扇子を開いては地紙を弾き、弾いては閉じ、また開く。如何せん九尾の狐の立場では、ただ苛立たしげに扇子を弄ぶことしかできないのである。
なぜ、九尾の狐がこの場所に屋台なんてものを構えているのか。
常々疑問に思う者も少なくないだろう。
店主と名乗っているにもかかわらず自ら調理はせず、鎌鼬を丁稚にしてラーメンを提供している。尾が汚れるのが嫌ならば往来に店など出さずに、ねぐらでのんびりと過ごせばいい。『九尾の狐』はそれができるほどの位を持った妖怪であるし、高位の妖怪の殆どは悠々自適に長い生を楽しんでいる。
だから殆どの妖怪は、九尾の狐は好奇心旺盛で酔狂な性質ゆえに、灯影街の妖怪たちと触れ合いたいのだろうと思っているだろう。
確かに好奇心旺盛ではあるし妖怪たちの話を聞くのは好きなのだが、数千年生きていれば誰だって好奇心が過ぎて酔狂にもなるだろう。
ではなぜ、九尾の狐ほどの妖怪が『葛ノ葉』に縛り付けられているかというと……、これには致し方ない明確な理由が存在するのである。
(有事の際の、拠点……拠点はおいそれと動けないんだ)
灯影街というのは、妖怪の世界に存在する歓楽街であり、最も人間界に近い場所だ。二枚の薄い紙を重ねて留める時の糊のようなもので、この街を介してのみあちらとこちらが重なっている。
当然、ここしか入り口がないのだから、二つの世界の間で何事かが起こった場合、ここが前線となる。
『何事か』というのは……、例えば、人間たちが大挙して押し寄せたり、使役目的で妖怪たちが捕縛されあちらの世界に連れ去られることだ。
なにせ、妖怪というのは戦力になる。
よくよく悪さをしに人間界を訪れる鬼火や鎌鼬は中級妖怪だが、それでも本気を出せば人間に対する殺傷能力は充分すぎるほどだ。万が一高位の妖怪があちらの世界に連れ去られて力を振るえと強要されたりすれば、陥落するのは村や町の一つに留まらない。国すら滅ぼしかねないほどの戦力に成り得るのである。
それゆえに、元々地続きだったはずの世界が、二枚の紙のように別れたのだから。
(よもや大妖怪の面々が、簡単に捕縛や使役の憂き目に遭うとは思えないけれど……)
絶体にない、とは言い切れない。
なにしろ事例はたくさんある。
一昔前に、詠が軍部の命令で烏天狗を使役しようとした。返り討ちに遭い失敗して降格になり、あろうことか灯影街に左遷させられて烏天狗に首輪を付けられた。
詠が烏天狗を狙った本当の動機は九尾の知る所ではないが、九尾の中では、そういうことなのではないか、とおおよその結論に至っている。
それに加えて、ついこの前は重である。奴の動機はごく個人的なものだったようだが、蛟を使役しようとして画策し、二つの世界に軋轢が生じる寸前だったのだ。
どちらも大妖怪の力量を見誤ったために失敗に終わったが、次に同様の事件が起こった時には失敗に終わるかわからない。
刀衆として着任して妖怪に日々接している人間ですらそう目論むのだから、『妖怪』という人知の外に生きている我々を、他所の人間が理解できるとは到底思えない。理解できないということは簡単に敵に回せるし、簡単にモノとして扱える。
だからこそ、『有事の際』という概念が、少なからずこの灯影街にも存在するのである。
(そうならないための交渉役が、烏天狗なわけだけどね……)
九尾の狐はまた扇子をぱらぱらと開くと、今度は地紙に真っ赤な爪を立てた。
烏天狗のことをこちらの世界で揉めた時の仲裁役だと思っている者は多い。灯影街に住まう妖怪たちもそう思っているだろうから、刀衆などはもっとそう思っているだろう。
しかし、奴の本来の仲裁相手は、いうなればあちらの世界そのものである。
烏天狗がこちらの世界で情報通なんて思われているのも、元を辿ればそれが要因だ。
こちらの世界のありとあらゆる些細な動きを把握して、何事かが動き始める前の『揺らぎ』のようなものを観察する。それを以てあちらの世界の動きに備え、必要であればあちらの世界へ赴いて要人と交渉する。そのために、不穏な気配や使える情報は常に手元に集めておかなければならないのである。
始まりはそういう理由だが、今はもう、烏天狗自身もそんな大層な役目を担っているとは感じていないかもしれない。
なにせ、こちらとあちらの世界が別れてからというもの、こちらの世界は至って平和だ。大小様々な諍いは起こるものの、二つの世界の境界を揺らがせるほどの大事には巡り遭わない。烏天狗があちらの世界に乗り込んだことなど一度も無いし、あちらの世界から大軍が送り込まれてくることも一度たりとてない。
だから誰しも烏天狗のことを、きっぷの良い大妖怪だと思っている。堪忍袋という言葉を知らないほど短気で、飲む打つ買う吸うの四拍子が揃っているものの、喧嘩を収めるのが得意な頼れる大妖怪。
そんなふうに思っているのである。
「内情を知らなくて済むのは、平和な証拠だねぇ……」
九尾の唇から、ついつい本音が転がり落ちた。
烏天狗の羽が毟られたことなど、下っ端妖怪たちにとってみればただの珍事なのだろう。噂を耳にして胆を冷やす大妖怪など、灯影街に出入りする九尾と蛟くらいで、他の上級妖怪たちはいつも幻界に引き籠って、世俗の諸々にはてんで興味を示さない。
神はなおさら、妖怪の世界にも人間の世界にも興味が無いのである。
そんなわけなので、あちらとの交渉役の烏天狗、神と同格の抑止力としてみなされている蛟、有事の際の前線指揮を担う九尾の狐の三妖怪が、こちらの世界の防衛を司ることになったのだった。
だから九尾の狐は、こんな場所でラーメン屋なんてものを開いていて、有事の可能性がある限りここを動くことができない。普段は灯影街に来ない蛟も、必ずここへ姿を見せて事の次第を把握しようとする。
そして、事態の収拾が手に負えない場合、烏天狗は必ずここに情報を持ち込む。
そういう手筈になっているのだから。
烏天狗がついこの間、たった数百年前に取り決めた諸々を忘れていなければ……
「来たね」
往来を駆ける軽い足音を耳にして、九尾の狐はパチンと音を立てて扇子を閉じた。
「ただいまっ!」
「方々走り回って来たぜ!」
案の定、鬼火と鎌鼬が店の暖簾を跳ね上げながら駆け込んで来た。
二匹の額には玉のような汗が浮かんでいる。鎌鼬の言葉通り、全速力で駆け回ったのだろう。
「どうだった?」
水差しに手を伸ばしながら九尾が聞くと、二匹は息も絶え絶えで顔を見合わせると口々に言い放つ。
「小間物屋の前に居たらしいよ!」
「いつの話だい?」
「朝餉時よりも前だって!」
「朝餉?」
灯影街は時間の概念に乏しいために、朝餉の時刻はみなまちまちだ。時計は詰所の前の広間にある大燈篭一か所のみで、誰もその時計を気にしちゃいない。
「つまり何刻だい? 聞いたのかい?」
気にしちゃいないが昔は時刻があったので、一応聞いてみる。
「聞いてきた! ええと……」
「だいたい明け六つ頃だってよ」
鎌鼬の助太刀に、鬼火がうんうんと大きく頷く。
「そんなに早くか……、妙だね」
二匹に水を与えて客席に座らせると、九尾は細い顎を撫でた。
明け六つといえば、あちらの時間で言えば朝の六時である。灯影街で開いている店は銭湯くらいで、小間物屋の主人は怠惰だからなおさら、まだ布団の中だろう。そこを叩き起こして店を開けさせたというのだろうか。
「急ぎの用事があったみたいで、すごい怒ってたって」
「話を聞いた奴が言うには、烏天狗に挨拶をしたら鬼の形相で睨まれたらしい」
「そうそう! こ~んな目で睨んだって!」
鬼火が両手の人差し指でこめかみを吊り上げる。鬼火がやってもただただ可愛らしいだけだが、烏天狗のあの涼しい目尻が釣り上がっていたのなら、相当ご立腹だったに違いない。
「で、烏天狗はそのまま帰ったのかい?」
「わかんない。怖くて逃げちゃったんだって!」
「なんだい、話を聞いた奴ってのはとんだ小者だね」
「そりゃ可哀想な言い草だ。羽が毟れてる烏天狗に挨拶したってだけでも勇気あるぞ」
「………」
九尾の狐は黙り込んでしまった。
何か、ひっかかる。
ご自慢の羽が乱れるほどの痛手を負ったのならば、朝早くから小間物屋の前で小者と鉢合わせるだろうか。すぐに葛ノ葉に報告に来るか、幻界のねぐらに戻って養生に入るかのどちらかだろう。
あの気位の高い烏天狗が、羽の毟れたみっともない姿で灯影街の中をふらふらするとも思えない。目尻を吊り上げて不機嫌を顕わにするほどのことならば尚更、誰にも見られないようにこっそりと行動しそうなものなのに。
「ねえ、どうしたの?」
「………」
九尾はまた丸椅子に尻を預けると、赤い扇子を指先で弄ぶ。
何かが、妙だ。
何か糸のようなものが、尖った耳の付け根に引っ掛かって取れないような……、そんな感じである。
右手が尻の方に伸びて、赤い爪の先が長い尾を順番に撫でる。一本、二本、三本――
「そういえば、詠は?」
ふいに、鬼火があっけらかんと言った。
「あれ、ほんとだな。食いに来てもいい頃合いなのに。もしかして店長、追い払ったのか?」
「それだ」
「え?」
何かが足りないと思ったが、足りないのはあの男だ。いつもふらふらとやってきて刀衆のくせに店先に入り浸る、あの刀衆――、詠の姿が見えないのである。
「おまえたち」
九尾の狐はパチンと音を立てて扇子を閉じると、ふっさりとした尾を揺らしながら立ち上がった。
「詠を探しておいで」
「詠!」
「そうか! なるほどな!」
「ついでに詰所に行って、英も呼びつけておくれ」
「わかったよ!」
二匹は元気に立ち上がると、まるで竜巻でも起こったかのようにして店先から駆け出して行った。
風圧で蔦が揺れ、深紅の暖簾がひっくり返る。
「いったいどうなってる……?」
詠が赴任してきてからこちら、烏天狗は詠を気に入ってあちこち連れ回している。
店に入り浸っている詠の首根っこを掴んで引きずり出す烏天狗の図は、葛ノ葉の来客どころか、灯影街でも有名な話だ。詠は毎回渋々連れ出されているし、烏天狗の方も意気揚々と楽しそうである。
その光景が目撃された当初は灯影街中で騒がれたものだが、数年も経てばただの日常風景で、店主の九尾ももはや何とも思わない。またやっているな、くらいの認識である。
だいたい三日に一回はその光景を目にするので、甚だ仲がよろしいのではないだろうかと思う。
まったく、己を襲った人間を丁稚にしようだなんて、酔狂にも程がある。九尾の狐が酔狂といわれるのなら、烏天狗は酔狂を通り越して大莫迦である。
しかし、種族が違い、寿命が違うからこそ、人間のことを面白く思う気持ちは九尾の狐にもよくわかる。何しろそれが面白いから、葛ノ葉に入り浸る詠のことを邪険にできないのだ。邪険どころかむしろ好ましい、とまで九尾の狐は思っている節があるのだから。
詠という男の性格も、好ましく思わされてしまう要因の一つかもしれない。
なにせあの男は物怖じというものを知らない。
刀衆の中でも怖いもの知らずは群を抜いていて、店にやってくる妖怪たちとも気軽に言葉を交わして一緒に日常の愚痴を漏らす。酔っ払った妖怪に度々肩を組まれるくらいに、妖怪たちの方も詠が刀衆であることを殆ど忘れている。
奴らの与太話の内容というのは毎回そこそこしみったれているのに、それに内心辟易としながらも辛抱強く相槌を打っている姿などが余計に、妖怪たちに警戒心を忘れさせる詠の長所なのだろう。
勿論、詠が心から楽しんでいるはずはない。半分くらいは処世術で、打算ゆえの振舞いだろうと九尾などは踏んでいる。
しかし、だからといって変に片肘を張ることもなく、まるで自分自身も妖怪の一匹であるかのようにして灯影街の風景に上手く溶け込んでいる。
その、努力なのか素なのかわからない性質が、九尾の狐の両眼には、大変に面白く映るのであった。
(烏天狗が構いたくなるのも、まあ、解らなくはないね……)
三日に一回店先でつるんでいるからといって、奴らが今日も一緒に居るとは限らない。あれだけ頻繁に行動を共にしているし、一度挑んでこてんぱんに叩きのめされたから、よもや詠が烏天狗を襲うことはないだろう。
ないだろう、と九尾の狐は断じている。
しかし、詠が店に顔を見せないことで、土に埋め戻したばかりの芽が二寸ほどの大きさに成長したような気がした。微かに頬に感じていた潮風が、急に耳元に響く潮騒に変わったくらいには、不安の種類も寸法も、急に膨れ上がったような気がするのだ。
「厭な予感がするね……」
九尾の狐は店先に回ると、蔦の廂に絡まった暖簾を閉じた扇子の先で突いた。
これで何事もなかったら、この落とし前をどうつけてくれようか。烏天狗には、溜まったツケを払わせるのに一日丁稚でもして貰おう。詠には一日中ネギでも刻んでもらって涙目を笑われて貰おうか。
「さて……」
さわり、と風が吹いた。
いや、正しくは、九尾の狐の高下駄の下で風が渦巻いたのだ。
九つの長い尾はゆらゆらと揺れ、薄桃色の毛並みが空気を纏って膨らんだ。薄桃色の尖った耳はぺちゃりと後ろに畳まれて、九尾の狐の不安を如実に表している。
「わたしも本気を出すとするか……」
ねぐらの赤い鳥居が、みしり、と鳴った。鳥居の太い柱を駆け上がるように巻き付いた蔦の先が、どこへともなく伸び始める。
どこからともなく湧きあがった生ぬるい妖気が、灯影街の路地裏までもを舐めるように駆け抜けていった。
【 参 】
鬼火と鎌鼬が去ってからほどなくして、店先に漂う空気が変わった。
「どうだった?」
「幻界には居ないようだ」
やってきたのは案の定、蛟である。
最初に店にやって来てから一刻ほど経過した頃合いであったが、幻界で烏天狗の気配を探るには充分すぎる。蛟のことだからおそらく、いつもは幻界に潜って姿を現さない妖を訪ねて歩きでもしたのだろう。
蛟は若干疲れたような表情で客席に座り込み、自ら水差しに手を伸ばして器に水を注ぐ。
「西紫にも会ってきた」
「あの蛇神様か。何か言ってたかい?」
「いいや。いつものように祠の前の湖でぼうっとしていただけだったな。そのうちに、お供の三匹がやってきて、なにやら肉を焼き始めたよ」
「そうか……」
九尾の狐は閉じた扇子で口元を隠した。
詠を見つけたという知らせも届いていない。詰所に居ればすぐに報せが届けられるだろうから、居ない、ということなのだと思う。
「これはいよいよ、困った事態かもしれないね」
「それよりも……、コレは九尾の狐の仕業だね?」
「そうだよ」
九尾は薄く笑った。
先刻、灯影街の隅々にまで妖力を行き渡らせた。臨戦態勢とまではいかないのでごくごく微量ではあるが、大小問わず諍いが起こればすぐにこちらに伝わるように膜を張った。いうなれば、蜘蛛の糸のようなものである。
幻界の深くにまで妖力を行き渡らせることは不可能だし、烏天狗の千里眼のように誰がどこを歩いているかを知ることはできないが、事態の収拾がつくまでは糸を張るに越したことはない。
「さすが水神様だ。……不快かい?」
「不快ではないけれど……いささか殺気が混じっているのは感じるね」
「暫く我慢しておくれ」
詠まで見つからないとなると、いよいよ本格的にまずい事態になるのかもしれない。こちらの世界での荒事に二人して巻き込まれた、などの顛末であってほしいものだが、詠がまた烏天狗に何かをしかけた可能性だって、無いと断じてはいるが、無くはない。
しかし、どちらの可能性もただの些末事だ。
あちらの世界から烏天狗に黒手が伸びたのでなければ――
「どうする?」
事態が悪い方へと進み始めている予感が腹の底をうずうずと蠢いている。
そう感じているのは蛟も同じなのだろう。九尾の狐のぺたりと倒れたままの耳をじっと見つめている。
「どうするもこうするも、わたしはここを離れられない。詰所からあの堅物がやって来次第、あちらの世界の動向を吐かせるさ」
涼しい声で言ってはみるものの、一番隊隊長が血相変えて駆けつけて来ないのが由々しき事態の証明のような気がしてならなかった。人間界で良からぬ動きがあるからこそ、あの堅物真面目一直線、曲がったことは大嫌いなあの隊長が顔を見せられないのではないだろうか。
(わたしの考えすぎかね……)
九尾は激しく尾を揺らしながら、閉じた扇子の先に真っ赤な爪を立てた。
――その時である。
暖簾の向こう側がにわかに騒がしくなった。
黄金色の両眼と視線がかち合った。
喧嘩ではない。九尾が張った蜘蛛の糸に引っ掛からなかったのだから。
視線を合わせたままこちらに向かって近づいてくる気配を探った二匹は、ほぼ同時に両眼を大きく見開いていた。
「よう、やってるかい?」
気配の正体を掴んだと同時に、噂の張本人が暖簾を上げながら顔を見せたからである。
「烏天狗!」
「おまえっ!」
二匹は勢いよくその場に立ち上がった。蛟は屋台の天井に角を突き刺し、九尾の狐の九つの尾は天を指すほどにピンと立ってしまっている。
「なんだよ、ふたりして」
烏天狗といえば、二匹の勢いに気圧されたようにして若干仰け反っていた。
「なんだよって、大丈夫なのか?」
「おまえ様の羽が毟られたっていうんで、灯影街じゅう大騒ぎになってるってのに」
「あー……」
烏天狗は明後日の方に視線を走らせて、まるで口笛でも吹き始めそうな形に唇を突き出した。
「幻界も探したが、どこにもいなかったじゃないか」
「わたしは店を閉めておまえを探しに行かせて、刀衆の隊長を呼びつけたところさ」
「あー……」
烏天狗は事の重大さに漸く思い至ったようで、困ったように首筋を掻いた。
「それで街中に九尾の狐の気配が満ちてるのか」
などと宣うのを見るに、灯影街を巻き込んで戦が始まるわけではなさそうだ。
「ああ……!」
九尾の狐は思わず声高に感嘆を漏らしていた。
良かった。
灯影街には、何事も無かったのだ。
ただの取り越し苦労、落ちない空の心配だったようだ。
一気に血が巡った頬を扇子で隠しながら、九尾の狐は丸椅子に座り込んだ。正しくは、へたり込んでしまった。
蛟の方も、強張っていた頬を緩めて客用の椅子に座り直している。
「そりゃあ随分悪いことしたな。な、詠」
二匹のそんな様子を目にしながら後ろを振り返るので、二匹もそちらに目を遣れば――
「だから言ったじゃないですか! 恥ずかしすぎるっ!」
刀衆の制服を着こんだ詠が、烏天狗の背中からひょっこりと顔だけを出して厭そうな顔でこちらを窺っていたのである。
「いやがることじゃないだろ」
「充分いやですよっ! 面の皮を千年鍛えた方々と一緒にしないでくれますっ?」
「なんだと? 吹き飛ばされたいか?」
といつもの脅し文句を口に並べるものの、烏天狗の表情はやけに穏やかであった。
「店長聞いてよ~酷いんだよ。ごめんなさいって謝ったのに、怒って出て行っちゃったんだよ!」
詠は頬を盛大に膨らませながら、客用の丸椅子に尻を下ろす。一応気を遣ったのか、詠が選んだのは烏天狗を挟んで蛟と反対の席だった。
すわ一大事か、と蛟と九尾が臨戦態勢に突入しそうになっていたことに悪びれる様子もなく、烏天狗は丁稚の鎌鼬を視線で探している。蛟は珍妙を絵に描いたような表情で奴を見つめていた。
「そりゃあおまえ、俺だって羽を毟られたらムカつくよ」
「だから謝ったじゃないですかっ!」
「謝罪で済むほど俺の羽根は安くない」
「く~~っ!」
店主の九尾の狐はというと、二人の遣り取りに注視しながら、扇子の陰で小首を傾げていた。
話の辻褄がどうにも合わないのだ。
烏天狗の羽を毟ったのは詠だったようだ。
まあ、それは良い。いや、良くはない。笑止千万、万死に値する暴挙だが、仲のよろしい奴らのことだから、奴らの関係性に口を出すほど九尾の狐は野暮ではない。
そこまでは理解できるのだが、その先がわからない。
詠が謝罪したが、烏天狗は当然怒って……それでなぜ、怒気を撒き散らした烏天狗が灯影街の小間物屋の前に現れるのだ。乱れた羽を整える暇も惜しんで。
(なんだ……?)
何かがストンと落ちて行かない。耳の端にはまだ、細い糸くずが絡まっているような感じがする。
九尾の狐の視線は、水差しに手を伸ばす詠に釘付けになっていた。
詠の表情。しぐさ。言葉遣い。遣り取り。
いつもと、何も変わらない。
たった一つだけ違うのは、詠の両耳に揺れる耳飾りだった。
いつも黄金色に揺れる大きな房飾りがぶら下がっている耳元に、今は、黒い何かがゆらゆらと揺れている。
屋台の暖簾をそよがせる風に乗ってゆ~らゆら、ゆ~らゆら――
「あっ、はははははっ!」
その黒い何かが何であるかを理解した途端に、九尾の狐は腹から声を上げて笑っていた。
「てっ、店長?」
「どうした、珍しいな」
「ああ、おかしい! なんだって、こんなっ!」
詠も烏天狗も、突如大声を上げて笑い始めた屋台の店主に目を丸くしている。蛟は遅れて意味を悟って、頭上に突き出した二本の角を抱えるようにして大きなため息を吐いていた。
「あっはははははははっ!」
九尾の狐は思わず傍らの卓に突っ伏してしまった。
顔を隠してお上品にほほ笑んでいる場合ではない。これが大笑せずにいられようか。
「なんだい、おまえたち! あっはははは! そういうことかいっ!」
ついに右手に掴んでいた扇子を閉じて卓を叩きながら、九尾の狐は笑い転げた。九つの尻尾が誰も見たことも無いほどに、ふっさふっさとあちこちに揺れながら乱れている。
「おい、九尾の狐はどうしたんだ?」
「烏天狗……今回は君が悪い」
「は? なんで」
「だっから言ったじゃん! イヤだって!」
九尾の狐は何とか笑いを収めると、右手の扇子をまた開いて口元を覆ったが……その後ろでは相も変わらず、口角が緩んでにやけきってしまっている。
(なんとまあ、烏天狗が、ね……)
人間界からの敵襲か何かで急襲を受けたのだ、と思って内心戦々恐々としていたのに、蓋を開けてみればどうということはない、ただの痴話喧嘩だったようだ。
痴話喧嘩、ではないのか。妖力の塊のような羽を毟られるほど油断していたのなら、閨で睦みあっている最中にでも詠が誤って毟ったか何かしたのだろう。
しかも毟れた羽をわざわざ小間物屋に持ち込んで、耳飾りを作らせた。店の開く時刻よりも早くに主人を叩き起こして、羽の毟れた不格好な姿を晒してまでも、どうしてもそうしたかったのだろう。見せしめのようにして、詠の耳にぶら提げたかったのだ。
詠への罰、ではないのか。羽を毟った罰だと思っていそうな詠には可哀想だが、烏天狗の方にそんな意図は毛頭無さそうだ。自分の唾が付いていることを周囲に知らしめるために、毟られた羽根を利用したのだ。
この、大妖怪の烏天狗が。
「まったく……」
九尾の狐は扇子を口元から遠ざけると、大仰に動かして火照った首筋に風を送る。面白さが頭の中を通り過ぎた後にやってきたのは、込み上げるような恥ずかしさだった。
「わたしも焼きが回ったもんだ……」
九尾は屋台の天井を見上げると、唇を突き出して大きな息を吐き出した。
「なんだよ、なんか文句でもあるのか?」
烏天狗の声音は、怖いほどに穏やかだ。
「いいや……素直じゃないねぇと思ったまでだ。乳繰り合いなんか見飽きてるはずなのに、さすがに胆が冷えた」
「笑ってただろ」
「そんなんじゃないからっ! 勘違いしないでっ!」
暖簾の向こう側には生ぬるい風が吹き抜け、鳥居に絡まった緑の蔦がさわさわと音を立てながら揺れている。いつもは妖力に惹かれて小者達でざわめく暖簾の向こう側は、今はまだ九尾の妖力に当てられてどこかに散ってしまったままだ。
それでも、灯影街は今日も喧騒で満ち溢れていた。暖簾の向こうの往来を行き交う妖怪たちは昨日と何も変わらずに、変化の無い景色の中で生き続けている。
誰一匹として、九尾の狐の心中を知る者はいない。もちろん蛟の心中も。ましてや、烏天狗の心中などなおさらである。
(灯影街は、今日も平和で結構なことだ……)
胸中でそんなことを呟いて、九尾は街に張り巡らせていた妖力の糸を警戒心と共に緩めたのだった。
「それより、丁稚の兄ちゃんはどこにいった?俺は腹が減ったよ」
「君を探して灯影街中を走り回っていたよ」
「なんだよ、ねぐらに居たのに」
「誰か来たって言ったのに無視してたじゃないですか」
九尾の狐は客の会話を何とはなしに耳に流し込みながら、いつもの丸椅子に改めて腰を掛けた。九つの尻尾はゆったりと揺れて、まるで神社の祭囃子に心が弾んでいる時のようである。
そのうちに鎌鼬と鬼火も息を切らして駆け込んできた。客席に並んで座っている烏天狗と詠を見ると、二匹とも崩れ落ちるようにしてその場に膝を突いている。
九尾はそれを見て、二つの鍋に火を入れた。強火はすぐに寸胴鍋の中味をぐつぐつと煮え立たせ、屋台の周りに馨しいスープの香りを漂わせ始める。
「九尾の狐! 何事だ!」
鎌鼬の威勢の良い水切りが披露された頃、赤い暖簾を跳ね除けて刀衆の親玉がやって来た。
「遅いっ! この体たらく!」
赤い扇子が一閃、傍らの卓がガタリと揺れる。
一拍の後、ポカンと目を見開いた英を見た一行の笑い声が、紫がかった空に高らかに響き渡ったのだった。
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